2015年11月29日

昭和天皇の未発表写真発見…

 27日夜のNHKニュースで、「戦後まもなく撮影 昭和天皇の未発表写真発見」を報じていた。それによると、この中の写真が雑誌『LIFE』に掲載されたが、未掲載のものが発見されたという。掲載写真では、昭和天皇の笑顔が写ったものはないが、未掲載分では笑顔写真がある。
 その意図は何か。当時、連合国軍の中には天皇の戦争責任を問う声もあり、国体=天皇制存続は日本の課題だった。その親しみやすいイメージを伝えることで、アメリカ国内で同情的な世論を生み出すことにあったらしい。
 写真を見ると、いかにも好々爺然とした昭和天皇と、ふくよかな香淳皇后と、利発そうな皇太子(現天皇)と、といった光景が見られる。ほほえましい写真である。本当は笠智衆を思わせるような好人物が、万世一系の皇位に即いたところに、この人の悲劇、または喜劇〈悲喜劇)が発生した。
 どこの町内にでもいるような普通の人(凡人・庶民)が、いかなる英雄・豪傑であっても避けたいと思うような、未曽有の大敗戦、空前の惨禍・惨状、絶後の占領支配と被植民地の悲哀、という三拍子揃った人生を送りたいと思うことがあるだろうか。しかも、この人は、その運命に遭遇し、ある意味では悲愴に、ある意味では平然と、これを受け止めたのである。それが、日本最古の家系とされる天皇家の本質なのである。
 歴代天皇一覧を瞥見すると、そこにはおよそこの人間社会にあり得るすべての事象が含まれていることを実感せざるを得ないだろう。神話時代の天皇は除くとしても、胎中天皇(応神)、嫉妬深い皇后(仁徳)、同母弟殺害(履中)、暴虐(雄略)、生まれながらの白髪(清寧)、果断にして残虐(武烈)、皇位簒奪(継体)、被殺害(崇峻)、女帝(推古)、重祚女帝(皇極・斉明)、外征敗北(天智)、自縊(弘文)、姪との婚(天武)、叔父との婚(持統)、……等々と、枚挙にいとまがない。列挙するのにも草臥れたので、今回はこの辺で打ち止めとしておく。
 言いたいことは、要するに、天皇家の歴史においては、何事もあり、何事も許される、ということである。

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(付・元のニュース)
《太平洋戦争の終戦後、昭和20年12月に撮影された昭和天皇の未発表の写真が新たに見つかり、来月から東京で一般公開されることになりました。当時としては極めて異例だった昭和天皇の笑顔の写真もあり、専門家は「戦後まもない時期の昭和天皇の素顔を捉えた貴重な資料だ」と話しています。
 今回見つかったのは、終戦から4か月後の昭和20年12月23日に皇居内で撮影された写真90枚です。写真家の山端祥玉が当時の宮内省から依頼を受け、経営していた写真通信会社のカメラマンが撮影したもので、山端の遺族が保管していました。
 この日撮影された写真は、翌年の2月4日付のアメリカの雑誌「LIFE」に昭和天皇の写真特集として掲載され、大きな話題となりましたが、今回見つかった写真は、そのときに撮影され最終的に掲載されなかった写真とみられます。
 このうち昭和天皇が、当時の皇太子、今の天皇陛下と一緒に英字新聞を読んでいる写真や、家族と一緒にテーブルについている写真では、昭和天皇が笑顔を浮かべています。
 LIFEに掲載された写真では、昭和天皇に笑顔はなく、よりくつろいだ瞬間を捉えています。当時の写真で昭和天皇の笑顔が写ったものは知られておらず、極めて異例だということです。
 また、昭和天皇と家族が乳母車を囲んでいる写真では、昭和天皇が先に立って歩いていますが、LIFEでは笑顔の香淳皇后が先頭になった写真が使われました。
 当時、天皇家の姿が公開される機会は少なく、雑誌に掲載する写真は厳選されたとみられることから、調査した日本カメラ財団の白山眞理調査・研究部長は、「戦後まもない時期の昭和天皇の素顔を捉えた貴重な資料だ。実際に掲載された写真との違いを調べることで、当時の日本政府がどういう天皇像を伝えようとしていたのかが浮かび上がるはず」と話しています。
 また、天皇制とマスメディアの関係を専門に研究している神戸女学院大学の河西秀哉准教授は、「連合国軍の中には昭和天皇の戦争責任を問うべきだという意見があり、天皇制の存続は日本政府にとって大きな課題だった。写真には昭和天皇の親しみやすいイメージを伝えることで、アメリカ国内で同情的な世論を生み出す意図があったと考えられる。日本の天皇制が在り方を模索していた一つの段階を写した貴重な資料だ」と話しています。
見つかった写真は来月1日から、東京・千代田区の日本カメラ財団のサロンで一般公開されます。》
posted by tabatabunsi at 22:43| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月26日

戦前から戦後にかけて…

 原節子が死んだ。「伝説の女優」と言われた。私たちの世代にとってはともかく圧倒的な大女優だった。ただ、その魅力はというと、曰く言い難いところがある。たとえば外国映画で原節子(1920年生)に匹敵するのはイングリッド・バーグマン(1915年生)だが、バーグマンの場合は『カサブランカ』にせよ『誰が為に鐘は鳴る』にせよ、劇的な演技性が印象されるのに、原節子の場合はあの光輝からすれば地味過ぎるような静謐な場面の記憶しかない。
 朝日新聞・26日夕刊の佐藤忠男のコメント。
《巨匠の作品に出演した女優の中ではトップ中のトップスターだった。戦中は軍国のお姉さんを演じ、戦後は民主主義を教えてくれる教師役も演じた。戦前から戦後にかけて、真面目な日本人の理想として仰ぎ見られる存在であり続けた女優でした。》
 …ふと、昭和天皇を連想する。

 もしこれがナチス・ドイツの場合だったら、戦前の国策映画に出た女優が戦後もそのままトップスターの位置を占めるということはあり得なかっただろう。日本では、昭和天皇も小林秀雄も原節子も、一貫して「仰ぎ見られる存在」であった。このことは、日本における「戦争責任」の実体を表徴している。それは戦勝国によって告発される限りにおいて、また特定の被害者・犠牲者によって追求される限りにおいて仮象的に存在するものであって、その問責の場を離れて普遍的に存在するものではないということである。戦前と戦後との間に、断絶感はないのである。

*(注)原節子は、9月5日、肺炎で死去。葬儀は近親者で営んだ。25日のテレビニュースで報道された。
 朝刊社会面の評伝記事(編集委員・石飛徳樹)によれば、中国侵略が進む1937年には日独合作映画『新しき土地』で旧満州開拓に携わる女性を演じ、太平洋戦争が始まると『ハワイ・マレー沖海戦』(42年)で銃後を守る大和なでしこの役で国策に貢献、戦後は『青い山脈』(49年)で民主主義を説く教員に扮し、新生日本を照らす太陽になった。……
posted by tabatabunsi at 17:07| Comment(4) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月22日

千年の肉食タブー…

 22日付・朝日新聞朝刊の「日曜に想う」欄。山中季広・特別編集委員の執筆による「ジビエ 千年の肉食タブー」を読む。
 ジビエというのは「野生鳥獣肉」のこと。最近は鹿肉バーガーとか猪肉そばとかが人気らしい。私も最近は余り機会がなくて食べないが、ジビエは好きである。
 ある女性料理研究家の話。ジビエを究めるために材料も自力調達しようと狩猟免許を取り、先輩ハンターについて山を歩くようになってすぐ壁にぶつかった。
「わなにかかったイノシシをしとめられないんです。男性がとどめを刺すのを見ましたが、やっぱりつらい。イノシシの目にはおびえや不安がはっきり見てとれる。無理だと思いました」
 筆者は自分の体験を記す。東欧の国の取材の後、相手の女性から「遠来のあなたに新鮮な食材を用意しました」と言われ、裏のウサギ飼育舎に導かれた。数百羽の中から「どうぞお好きな一羽を選んで下さい」と言われてやむなく隅の一羽を指さす。まもなく変わり果てた姿で食卓に。「つぶらな瞳が目に浮かんで困った。」
 最後に筆者は、こう書いている。
《どこの国でもいつの世も、だれかが捕まえ(育て)、とどめを刺し、解体しない限り、食肉は食卓に届かない。
 バーガー店やスーパーなど、自分が食肉流通の最下流しか知らないことに今さらながら気づいた。》

 その通りで、これ自体に付言するものはない。私の関心は、記事にもあるが、日本ではどうして食肉タブーが長く続いたのかという点である。
 筆者も紹介しているが、天武天皇は「牛・馬・犬・猿・鶏」の5種の食用を制限し、聖武天皇は東大寺大仏造立を発願して、3年の期限付きで一切の肉食を禁じたという。そういう肉食タブーは確かに「現代人の胸になお残っている」と私も感ずる。
 鯖田豊之の『肉食の思想』では、国土の広いヨーロッパでは家畜なしの農耕は不可能で、日本とは比較にならないほど動物は身近な存在であり、しかもそれを食用として殺す必要に迫られる。そこで、人間と動物を断絶するキリスト教的論理が歓迎され、これが動物屠殺と動物愛護の両立を可能にした、とされている。
 日本では仏教の影響もあるだろうが、もっと根からの心情に因があるだろう。それを神道的な触穢のタブーと言っていいのかどうか分からないが、私にはそれが日本人の天皇肯定感情ともどこかで繋がっているような気がしてならない。日本の自然環境、自然への一体感情が、人間と動物とを断絶させず、人間中心主義の論理が徹底しない理由であるのかも知れない。
 私の子どもの頃、富山の田舎に疎開中にある家に厄介になっていた時、ウサギ小屋が山犬に襲われてウサギが多数死んだ。その肉を食べた記憶がある。現場を見たことは見たのだが、つぶさにではなかったので嫌悪の情はなく、おいしかった記憶がある。
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(付・原文)
 先日、東京・飯田橋で急ぎの昼食にハンバーガー店へ駆け込んだ。
 注文したのは「鹿肉バーガー」720円。高い。でも味は鮮烈だ。
 希少で高価なはずのシカ肉、いつのまに大量流通していたのか。
 「バーガーは2年前から、カレーやパスタの具材としては4年前から商品化しています」。この外食店ベッカーズを展開ログイン前の続きするジェイアール東日本フードビジネスの佐野正人・経営企画部長(55)は言う。同社でジビエ(野生鳥獣肉)商品を開発した当人だ。
 「硬いとか臭いとかジビエには偏見があります。特にバーガーは野性味が前面に出る。材料の調達や衛生管理など難関も多くハラハラした。でも予想以上の売れ行きで安心しました」
 初年度、8千食分を用意したバーガーは1カ月もしないうちに完売。昨年度は1万7千食まで伸びた。
 シカを軌道に乗せた佐野さんが、いま情熱を燃やすのはイノシシだ。千葉県君津市の山林に入り、猟友会と提携した。昨年から「猪肉(いのしし)そば」として系列店で売り出したが、イノシシも一筋縄では行かない。ハンターの気配を察して一斉に姿を消したりする。

 ハンターの全国組織、大日本猟友会によると、年間に捕獲されるシカとイノシシは各40万頭ほど。ジビエなどに利用されるのは2割に満たない。
 「ジビエにするのは大変な労力。しとめたら20〜30分以内に内臓を除き、血抜きをし、解体して加工場へ運ぶ。各人の捕獲頭数は増えたが、現状では獣に比べてハンターが少なすぎます」と佐々木洋平会長(73)。シカやイノシシが3倍、4倍と増える間に、37万人いた会員は10万人に減った。
 年来の働きかけが実って、厳しかった銃刀法が緩和され、鳥獣保護法も改正された。各地の猟友会は女性ハンターの拡大に力を注ぐ。
 そのひとり、福岡市の料理研究家・井口和泉さん(41)に会った。専門はフランス料理。ジビエを究めるなら材料も自力で調達できてこそ。そう考えて、2年前に狩猟免許を取った。
 先輩ハンターについて野山を歩くようになってすぐ壁にぶつかった。
 「わなにかかったイノシシをしとめられないんです。男性がとどめを刺すのを見ましたが、やっぱりつらい。イノシシの目にはおびえや不安がはっきり見てとれる。無理だと思いました」
 おびえた目と言えば私にも忘れがたい経験がある。東欧の小国モルドバでのこと。取材のすぐ後、相手の女性実業家から「遠来のあなたに新鮮な食材を用意しました」と昼食に誘われた。導かれた先は邸宅裏のウサギ飼育舎。誇らしげに数百羽を指さして「どうぞお好きな1羽を選んで下さい」。
 長い取材をさせてもらった手前、断るに断れない。隅の1羽を指さした。まもなく変わり果てた姿で食卓に。つぶらな瞳が目に浮かんで困った。
 ウサギを食べるフランス、七面鳥を食べる米国、イヌを食べる中国。これまで海外で多彩な肉食習慣を見聞きしてきたが、獣肉の利用という面で、日本はきわだって淡泊な気がする。群れを一網打尽にして、骨の髄までガッツリ食べ尽くすということをしない。
 歴史をふりかえれば、天武天皇はウシなど5種の食用を制限した。聖武天皇は肉食の一切を禁じた。その後も食されはしたが、神事や医療、供応など例外扱い。明治以降、禁は消えたものの、千年の肉食タブーは現代人の胸になお残っているような気がする。

 さて今回、取材でお会いした方々は、どなたも野山に分け入り、けもの道をたどった経験が豊かだ。対する私は、食肉と言えばスーパーの店頭に並ぶパック包装しか浮かばない。
 どこの国でもいつの世も、だれかが捕まえ(育て)、とどめを刺し、解体しない限り、食肉は食卓に届かない。
 バーガー店やスーパーなど、自分が食肉流通の最下流しか知らないことに今さらながら気づいた。
posted by tabatabunsi at 19:30| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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