2016年01月30日

鎮魂と感謝…

 知的分析と、情的反応とはしばしば――いや、ある意味では、つねに――相反するものらしい。
 昨日、私はフィリピン訪問記事の中の天皇の扱いに対して、違和感を表明したが、たまたま観たテレビのニュース番組での映像にはやはり胸を揺さぶられる思いがした。
 今日の朝日新聞・朝刊の「両陛下フィリピン訪問」に関する特集記事は、天皇・皇后のフィリピン訪問を、継承・慰霊・謝罪にとどまらず、さらには鎮魂・感謝まで、すべてを含んでいるものとして位置づけている。これはおよそ人間の為し得る業ではない。ただ神のみが果たし得ることである。そう私は感じた。
 ここから私が発見したのは次のようなことであった。…
 そこで天皇・皇后に接した人々の反応は、いわば天皇・皇后を神として畏敬しているかのようであった。真実はこうなのだ。日本人にはこういう神が必要なのだ。…キリスト教的な絶対的な審判者ではなくて、いわば阿弥陀信仰のように無限抱擁的に受け入れてくれる慈愛の神を、日本人は好む。信奉し随順する。そして分析的には厳しくあろうとする私も感性においてはどうやら同じ心情の持主らしいのだった。
 ただ、私にはこの心情は、かつての「溥天の下王土に非ざる莫く、率土の浜王臣に非ざる莫し」に通じ、大東亜戦争の兵士たちの「天皇陛下のために」の祈りに通じる、危険な根を有するもののように疑懼されるのだが…。
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(記事)
「激戦地、3代の縁――紡いだ友好、鎮魂と感謝」 皇室担当特別嘱託・岩井克己

 何としてもいま赴かねば――。急浮上した天皇、皇后両陛下のフィリピン訪問に、そんな切迫感が漂うように感じる。戦争の体験と記憶が年々風化を速める危機感。沖縄、硫黄島などと続いた戦地訪問の旅は、戦後60年にサイパン、70年にパラオへと海外に延び、そして太平洋戦争の主戦場フィリピンの地に及んだ。
 昭和・平成を通じてフィリピン大統領は何度も来日しているが、天皇のフィリピン訪問はこれまでなかった。また天皇がフィリピンでの戦争に正面から言及したのは1958年12月、戦後初めて迎えたフィリピン元首のカルロス・ガルシア大統領の歓迎晩餐(ばんさん)会のときに昭和天皇が触れたきりで、以来長らくなかった。
 ただ、昭和天皇の思いが垣間見えたかのような瞬間はあった。86年11月、コラソン・アキノ大統領来日の時だ。マルコス独裁体制を倒した「ピープルパワー革命」で大統領に就任して間もなくだった。大統領との会見で昭和天皇が第二次大戦に関し何度も謝罪したとの情報が、フィリピン側から流れたのである。しかし日本側は全面否定。「昭和天皇実録」にも記録はない。
 ただ一人会見に同席していた安倍勲式部官長は、この時の天皇と大統領のやりとりを退職後に随筆に書き残している(昭和塾塾友会「回想の昭和塾」所収)。
 コラソン大統領「亡夫ベニグノの父はベニグノ・アキノと申しまして、先の大戦中、日本を訪問し、陛下におめにかかったと申しておりました」
 昭和天皇「そうでしたね。いろいろと迷惑をかけました」
 大統領「いえ、そのことはお互いに忘れることとしましょう。父も亡夫も、恨みごとなど全然いっておりませんでした。戦争は、誰にとってもむごいものです。だから、私共は、あくまで平和を求めなければならないと思います」
 天皇「フィリピンの人達(たち)には、ほんとに迷惑をかけました。残念でした」
 コラソン氏の義父ベニグノ・アキノ・シニア下院議長は日本の軍政に協力し、東条内閣の大東亜会議にも参加した。米軍の反攻で日本に落ち延びたが、戦犯として巣鴨拘置所に収容され、母国で「対日協力者」として裁判にかけられるなどつらい経験を味わった。
 昭和天皇の「謝罪」にコラソン大統領の目には光るものがあり、後々まで「ほんとに優しい親切な方」と繰り返した。昭和天皇の大喪、現天皇の即位の礼にも自ら参列した。
 そのコラソン大統領の国賓行事の時、現天皇陛下は皇太子として、また息子のベニグノ・アキノ3世現大統領も随員として同席していた。コラソン大統領と現陛下も、現大統領と皇太子さまも同年生まれ。戦争と平和の日比関係史の裏には親子孫3代の縁(えにし)も織り込まれている。
 そして昨年6月――。現大統領の歓迎晩餐会で、天皇陛下は戦争に正面から踏み込む「おことば」を述べた。
 「先の大戦においては、日米間の熾烈(しれつ)な戦闘が貴国の国内で行われ、この戦いにより、多くの貴国民の命が失われました」
 「痛恨」という最大級に近い表現も盛り込まれた。象徴天皇が過去の戦争に触れるのは国家間関係として1回で十分という長年の縛りを解く異例のことであり、宮内庁関係者の間には一時慎重論も出たが、戦後70年の節目として、ガルシア大統領に対して以来57年ぶりに天皇が「戦争」に言及した。
 戦後70年を越えて、民間団体の調査で約400にのぼるという多くの慰霊碑は、訪れる人が絶え、朽ちつつあるという。日本人戦没者52万人。今も三十数万の遺骨が山野に眠る。風化の瀬戸際である。
 その地に立って、忘れてはならない人々の存在に光をあて、鎮魂と平和の祈りを捧げたい。戦禍の深い傷を抱えながら戦犯赦免などの和解を決断し、友好関係を結んでくれたフィリピンの人々に感謝の気持ちを伝えたい。できれば3代にわたり縁を重ね、招請してくれたアキノ大統領の任期(6月)のうちに果たしたい――。そんな歴史への深い思いが込められているようにみえる。
     ◇
 いわい・かつみ 元朝日新聞編集委員。1986年から2012年まで皇室・宮内庁を担当した。「『紀宮さま、婚約内定』の特報」で05年度新聞協会賞を受賞。

 ■多大な犠牲、風化にあらがう
 1941年12月、日本軍は日米開戦の直後から米統治下のフィリピンを空爆した。南方資源の輸送ルートを確保するため、翌年1月に首都マニラを占領し、各地に侵攻していった。しかし44年10月、米軍は圧倒的な軍事力でレイテ島に再上陸。翌年1月にはルソン島でも攻勢を強めた。本土決戦を遅らせるために死守命令を受けた日本軍は投降も玉砕も許されず、補給も途絶え、飢えや病気に苦しんだ。6月までに主力部隊が壊滅状態に。日本人は51万8千人が亡くなり、37年以降の全戦没者の6分の1にのぼる。一方、フィリピン人も111万人が犠牲になったとされる。

 ■フィリピンと日本との関係
1941年 日本軍が米統治下のフィリピンを空爆
  42年 日本軍が占領。「バターン死の行進」
  44年 米軍がレイテ島に再上陸
  45年 マニラ市街戦でフィリピン人10万人が犠牲になったとされる
   〃  日本敗戦(8月)
  46年 フィリピン共和国独立
  53年 キリノ大統領が日本人戦犯を特赦
  56年 日比賠償協定締結
  62年 皇太子ご夫妻(現・天皇、皇后両陛下)がフィリピン初訪問
  74年 残留日本兵の小野田寛郎さんがルバング島で見つかる
2015年 アキノ大統領が訪日。天皇陛下と会見
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2016年01月29日

天皇という存在…

 29日(金)付の『朝日新聞』朝刊の記事から、二つ。(資料は後掲)

 一つは、26日からの「継承・慰霊・謝罪」の旅について総括した「天皇慰霊の旅」と題する社説。ここでは、歴史認識の基礎となる戦争の史実への認識を深めることを期待している。
 その趣旨にもちろん異論はない。だが、私は、日本人はそのために天皇の存在・権威を借りなければならないのかと不審である。《戦後70年という「節目」が過ぎてなお両陛下は激戦地に足を運び、平和への願いを示している。その思いを共有したい。》と社説は結ぶ。だがこれは危うい。天皇の行動によってしか平和への思いを共有できないという日本とは一体、何だろうか。もし首相が同じ行動をした時にも、社説は「その思いを共有したい」と言うだろうか。これでは日本は君主国であり、立憲主義の国ではないことになるのではないか。

 二つ目は、「似ている。けれど違う」と題する「社説余滴」の記事。執筆は箱田哲也(国際社説担当)。
 これは日韓の「違い」の問題を示唆している。中で、こうある。
《4年前、当時の李明博(イミョンバク)大統領が天皇への謝罪要求ともとれる発言をした時のことを思い出す。李氏は趣旨が誤解されたと必死で釈明したが、後の祭り。あまりに強い日本の反発ぶりに韓国では、天皇とはどんな存在なのかが大きな話題となり、日本研究者への問い合わせが相次いだ。》
 私もこの時の日本国内(政治家・マスコミも含めての)の反応に違和感を抱いた記憶がある。内容についての反発ではなく、そもそも天皇に謝罪要求したこと自体が強い反発の契機となった。しかし歴史的に天皇家の継承者に、植民地支配の責任を問うこと自体は何ら問題視されるべきことではないはずである。また憲法の象徴規定からして、天皇は日本国の機関の重要な一つであるのだから、批判が許されないという法はないのである。
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(資料・1)
社説「天皇慰霊の旅 歴史を知ることの重み」

 フィリピン最大の都市マニラ。ここで日米による1カ月間もの市街戦があり、10万とも言われる市民が命を落とした。
 東京大空襲や沖縄戦での住民犠牲にも及ぶ悲劇を、どれだけの日本人が知っていただろう。
 戦後70年が過ぎ、記憶の風化が叫ばれる。しかし、知らない事実は風化すらしない。
 歴史に謙虚に向き合う一歩は、何があったかを知ろうとすることだ。天皇、皇后両陛下のフィリピン訪問を、そうしたことを考える機会にしたい。
 「戦争の禍(わざわい)の激しかった土地に思いを寄せていく」。天皇陛下は、かつて記者会見でそう語った。95年に長崎・広島・沖縄を巡った。05年はサイパン、昨年はパラオへ。
 その「慰霊の旅」が、旧日本軍から最も大きな傷を受けたアジアに向いたのは、自然な流れだろう。
 フィリピンでの日本人戦没者は餓死なども含めて約52万人。数え切れない悲劇があった。レイテ沖海戦で戦艦武蔵が沈み、最初の特攻隊が米艦に突っ込んだ。「バターン死の行進」では米国人とフィリピン人の捕虜が多数、犠牲になった。
 だが、訪問に先立つ「おことば」で、陛下はそうした史実をふまえた上で、地元の一般市民に光をあてた。
 「多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜(むこ)のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています」
 当時を記す文献にこうある。「廃虚にべったり腰をおろし、うつろな目を地上に投げ落としている者もあった。だが、砲弾は情け容赦もなかった。彼らの上に砲弾が落下したあと、そこには一片の肉切れさえも残らない」(『大東亜戦史』)。沖縄戦での光景とも重なる。
 歴史を振り返る時、まず同胞の犠牲を思う気持ちは自然なことだ。ただ、そこにとどまっては、戦争の一部しか理解したことにならない。「先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくこと」が大切だと、陛下は昨年末に述べている。
 十分に知る。そのためには「敵と味方」「兵士と市民」「日本人と外国人」など様々な隔てを超える視点が要る。同じ人間としての視点から戦争をとらえ、過ちを繰り返さぬ誓いを貫く営みが求められている。
 戦後70年という「節目」が過ぎてなお両陛下は激戦地に足を運び、平和への願いを示している。その思いを共有したい。
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(資料・2)
(社説余滴)「似ている。けれど違う」 箱田哲也(国際社説担当)

 韓国の朴槿恵(パククネ)大統領の名誉を記事で傷つけたとして、産経新聞記者が韓国の検察に起訴された一件は、無罪判決が確定した。
 そもそも、大統領に批判的な記事を書いた記者を罪に問うというやり方に無理があった。判決には政治のにおいが漂わないわけでもないが、判断としては当然だった。
 慰安婦問題を担当する日韓の当局者はともに、無罪判決後に交渉が加速し、年末の政治合意につながったと語る。日本政府がいかにこの問題を重くみてきたかがわかる。
 ただ、今回の件は、今後の日韓関係を考えるうえで、改めて示唆するものが多かったと思う。その一つが両国間の「違い」の問題だ。
 日本に比べ、韓国メディアでは「言論の自由の危機」というとらえ方は少なかった。
 何人かの韓国の記者に理由を聞くと、おおむね二つの答えが返ってきた。誰もうのみにしない「証券街の関係筋」の話を引用したため記事が悪意的と映った。そして、そんな情報をもとに独身女性の大統領の異性問題を取り上げたため、真に守るべき「自由」にあたるのかという疑問が生じた、という指摘だ。
 特に後者については、長く朝鮮半島報道にあたってきた日本人記者のOBらも「あれはまずかった」と漏らした。儒教意識が強い韓国は極めて倫理志向的であるうえ、韓国の大統領は王と政治指導者の中間ぐらいに位置するなどと言われるからだという。
 一方で韓国メディアは、国家運営上の失政などに関しては、大統領にも容赦ない批判を加える。それだけに、言論の自由の危機といわれてもピンとこないのだろう。
 4年前、当時の李明博(イミョンバク)大統領が天皇への謝罪要求ともとれる発言をした時のことを思い出す。李氏は趣旨が誤解されたと必死で釈明したが、後の祭り。あまりに強い日本の反発ぶりに韓国では、天皇とはどんな存在なのかが大きな話題となり、日本研究者への問い合わせが相次いだ。
 中傷や扇動が目的の言動は問題外だが、共通の文化圏に住む、似たもの同士ゆえに気づかない部分も少なくない。
 「同じだ」という意識は過剰な期待や甘えにつながりやすく、それがかなわなかった時には大きな失望や強い敵対心すら招きかねない。
 似ている。けれど違う。
 互いにこう認識することで、避けることができる無用な衝突もあるのではないか。
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2016年01月25日

継承と慰霊と謝罪と…

 20日の『朝日新聞』朝刊に、次の記事が出ていた。

《「継承の旅 天皇陛下フィリピンへ」(一面・見出し)
 今月フィリピンを訪れる天皇、皇后両陛下。戦後70年のパラオに続く慰霊の旅となる。戦地で何があり、どう語り継がれているか。3回に分けて紹介する。(以下、37面)》

 その後も関連記事はあった。引用は省略する。私がよく分からなかったのは、この一連の企画記事の趣旨についてである。見出しには「継承」とあり、前文では「慰霊」とある。しかし本文を見ると、当然のことながら戦地の悲劇の具体例が数多く列挙されていて、これは要するに「謝罪」の旅を意味するもののようである、と私は思った。
 今日(25日)の記事には「両陛下訪問待つフィリピン」とあり、戦時中、陸軍歩兵第17連隊にいて、住民殺害の加害者だった人(92歳)の証言を出している。最後は《今回、両陛下が慰霊することに「現地住民に与えた苦労、苦痛に対して日本を代表して謝罪に行ってくださる」と受けとめている。》というその人の気持を書いている。

 実際、現在において、昭和天皇の唯一の直系である現天皇以外には、あの戦争の継承も慰霊も謝罪も為し得ないもののようである。しかし、どうしてそうなるのか。それは、昭和天皇が唯一、無傷で戦前から戦後への転換を潜り抜けてきたように見えるからである。勿論それは事実ではない。昭和天皇ほど内面的にも外面的にも戦争の傷みをまともに受け止め続けてきた人はいない。そこには法的・政治的責任はなかった。道義的責任は深く負い続けてきた。しかし国体の継承者としての存在責任はついに果たすことがなかった…。それは単純なことであった。裁判を経ての宣告・処刑は東條英幾らが負った。政治責任者たちはそういう形で贖罪したのである。昭和天皇については、天皇制が廃されるか、少なくとも退位するか、そのどちらかで歴史への存在責任を清算するしかなかったのだが、それはGHQによって阻まれた。その結果として、天皇は今日に至るまでもなお、継承と慰霊と謝罪の旅を続けなければならなくなっている。…
posted by tabatabunsi at 17:39| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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