2016年02月29日

君が代は…

 朝日新聞29日の「声」欄に、国歌についての意見が出ている。

《「愛唱歌」に歌われた祖国愛  事務職員 吉野寿子(東京都 62)
 岐阜大学の学長が、卒業式などで「君が代」を斉唱しない方針を示した。私はその岐阜大の教育学部付属小・中学校で教育を受けた。自主性の尊重などが教育方針とされていた。
 そこで、校歌のように「愛唱歌」として歌われたのが「われら愛す」という歌。戦後、サントリーの前身・寿屋が「新国民歌」を公募した際、人選したものだ。日本の各地の地名を織り込みつつ、自然あふれるこの美しい国を私たちは愛し、平和を祈るといった内容だ。
 「君が代」は音楽の時間に「国歌」としてきちんと習った。だが行事で歌った記憶はない。愛唱歌として「われら愛す」が定着していた。中学の卒業式で「君が代」を斉唱しないことが報じられたこともあったが、「別に体制批判でもないのに」と子ども心に不可解だった。
 改めて「君が代」を考えると、日本古来の音楽を思わせる美しい響きで、胸を張れる。だが歌詞はどうだろう。天皇が治める国ではない今、「この歌詞で国歌と言われても……」とも思うのだが。》

 ここに紹介されている「われら愛す」を検索してみた。確かに「日本の各地の地名」が織り込まれているが、要するに、屈折のない歌である。国歌というのは、どの国の場合もそうだが、歴史の現場のから立ち上がってきたもので、ある意味ではそれは硝煙の臭いさえ漂わせるものである。歌詞にも「敵の軍勢」「砲弾」「武器」「勝利」等の、敵との戦いを謳うものが多い。
 その点、「君が代」は平和的であるが、歴史性は濃厚にある。古今集の「巻第七 賀歌」の冒頭には「題しらず・よみ人しらず」として、「わがきみは 千代にましませ さざれ石の 巖となりて 苔のむすまで」となっている。その後、和漢朗詠集では「君が代は」となり、さらにこれは薩摩琵琶の「蓬莱山」にまでつながっている。
 問題は、この投書者が言うように、この歌詞が現代日本に適合的かどうかだろう。
 古今集の場合では、それは明らかに天皇を指しているものとは言えない。「きみ」は当時「主君」の意に限定されず、敬愛する相手に対して用いられている。『古典基礎語辞典』によれば、これは本来的には「尊敬をもった奉仕の対象」に対して用いられた。その奉仕は畏敬というより敬愛の情に支えられていた。そこから、女性が敬愛する男性に対して使う呼称となったと考えられる。奈良時代には夫婦や恋人の間で使われたのがほとんどだったが、平安時代では同僚など敬意をこめて親しい相手を呼ぶのに使われるようになった。つまり、キミが出てくる奈良時代の和歌は作者が女性であるとほぼ確定できるのに対し、平安時代の和歌は作者の性別の指標にはなり得ない、という。
 しかし、明治期に国歌と採用されてからの「君」の意味は明らかに天皇・皇室を指し、その天壌無窮の国体を賛美するものとして強調されたことは確かである。しかしそれをさらに広く言えば、天皇を象徴とする日本国の全体を指示するものとしても読めば読めるのである。
 ところでしかし、この投書者が言うように、現代日本は「天皇が治める国ではない今」と言えるのだろうか。
 もちろん、憲法の規定は象徴天皇制である。だがそれは日本の歴史の長きにわたって実はそうだったのではないか、とも言えよう。実際に幾つかの例外を除けば、日本史の実権は摂関から武家政治(将軍)へと変遷しつつ、象徴的には歴代、天皇の治める(統治する=しろしめす)国であったのである。それは政治行為としてよりも、より濃く祭祀的行為だった。祝詞には「大八洲豊葦原の瑞穂の国を安国と平らけく知ろしめせと言寄さし奉り賜ひて」とある。
 現天皇・皇后は「祈る人」としての姿勢が顕著である。祭祀的天皇の典型であると言ってもいい。その意味での「治める人」であると考えることも、特に牽強付会の説とも言われないのではないか。
 私自身についていえば、これを国歌として慣習的に歌うことに抵抗感はない。それが日本歴史の伝統だと思うからである。
posted by tabatabunsi at 22:46| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月24日

散って真珠の…

『全集・現代文学の発見』第14巻「青春の屈折(上)」に所収の坂口安吾「古都」「真珠」の二つの短編を読む。
 いずれも昭和17年の作品である。前者は昭和12年早春の宇垣内閣流産や日華事変(日中戦争)を、後者は昭和16年12月8日の大東亜戦争〈太平洋戦争〉勃発をそれぞれ時代背景としている。特に後者は、単なる背景ではなく、まさに真珠湾に突入した特殊潜航艇に乗り込んだ九人の「軍神」たちを主題としている。

 この「軍神」たちのうち、生き残って最初の捕虜となった酒巻和男(海軍少尉)には昔、取材で会ったことを覚えている。それはともかく、今、これらの坂口の戦時中の短編群を読んで、時間の遠近法が取りにくいことに気がつく。

 たとえば、「真珠」の中で、12月8日のことは、こう書かれている。
《僕はラジオのある床屋を探した。やがて、ニュースがある筈である。客は僕ひとり。頬ひげをあたっていると、大詔の奉読、つづいて、東条首相の謹話があった。涙が流れた。言葉のいらない時が来た。必要ならば、僕の命も捧げねばならぬ。一兵たりとも、敵をわが国土に入れてはならぬ。》

 大詔というのは「米英両国ニ対スル宣戦ノ大詔」である。その冒頭、――
《天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
 朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心国家ノ總力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ》

 東条首相の謹話の冒頭は次の通り。
《只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。
 精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦を行ひつつあります。
 東亜全局の平和は、これを熱願する帝国の凡ゆる努力にも拘らず、遂に決裂の已むなきに至つたのであります。》

 この日の朝日新聞の社説にはこうある。…
《いま宣戦の大詔を拝し、恐懼感激に耐へざるとともに、粛然として満身の血のふるへるを禁じ得ないのである。一億同胞、戦線に立つものも、銃後を守るものも、一身一命を捧げて決死報国の大義に殉じ、もつて宸襟を安んじ奉るとともに、光輝ある歴史の前に恥ぢることなきを期せねばならないのである。》

 開戦の報に接した時の知識人・文学者等の反応については、たとえば高村光太郎の詩が有名だが、それはさておく。
 ここで坂口は、本心を吐露しているのだろうか。それとも時勢・時局にかんがみて、こういう言辞を弄しつつ、実は反権力的な姿勢であったのだろうか。
 作品全体を読むと、どちらにも、事後的には解釈の可能性がある。しかし、この時点では、坂口は真実、そう思って書いたのだろう。涙も流れただろうし、「言葉のいらない時が来た」と実感したのだったろう。

 最後の方に、「軍神」古野中尉の辞世の句から、「散って真珠の玉と砕けん」が取られているが、辞世の二句は正確には次のようである。
《君のため何か惜まん若桜 散つて甲斐ある命なりせば
 いざ征かむ網も機雷も乗り越えて 撃ちて真珠の玉と砕けむ》

 坂口の姿勢について、詳しく確かめるいとまがない。以上を記録しておくのみにとどめる。
posted by tabatabunsi at 17:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月18日

所属型と契約型…

 どうも天皇論というのは深入りするほどに錯綜した迷路に墜ちてゆく気がする。
 考えてみれば当然のことなのだったが、天皇論は日本(人・文化・風土〉論と一体のものらしい。そして何事も、その気になって読めば、すべて天皇論に絡み合ってくる。
 今日の朝日・朝刊の「読み解き経済」欄。)理論経済学の松井彰彦による論説「SMAPと小林幸子――「村」揺るがすネット市場」を読む。

 その要旨は次の通りだ。
・先般のSMAPの騒動。メンバー5人の生放送番組での「謝罪」によって、解散が回避された。TVでの街頭インタビューは「解散しなくてよかった」とのコメントで埋め尽くされた。同じころネットでは、同じ「謝罪」場面を「公開処刑」と評する書き込みや、独立を阻止する事務所の行動を批判する声が目立った。
・この一連の騒動を、共同体と市場のせめぎ合いの問題として読み解いてみると、日本の社会にある二つのシステムに行きつく。一つは所属型システムと呼ぶべきものである。日本ではタレントは多くの場合、特定の事務所に所属し、芸能活動を展開する。芸能界は厳しい。多くのタレントの中で、自活できるのはごく一部である。稼げるタレントが所属事務所にお金を落とし、稼げないタレントの食い扶持を賄うしくみである。
・稼げるタレントに独立されてしまっては、事務所の存続、ひいては所属型システムが根底から揺らいでしまう。そこで、意図的か自然発生的かはともかく成立しているのが、「事務所から独立した芸能人は干される」という慣行である。この慣行は比較的閉鎖的ないし組織化された共同体では存続しやすい。閉鎖的な共同体で「裏切り」行為をした個人は、裏切った相手だけでなく、共同体全体から「村八分」にされる。それによって「裏切り」行為を抑止する。
・SMAP解散騒動は、芸能事務所とTV局および芸能人からなる共同体が、中居正広らの独立を「裏切り」と見なすことで抑止力を発動し、独立を阻止した事例と解釈することができる。共同体という旧システムに属するTV局が抑止力発動に与したのは理の当然である。また、TVの情報番組の出演者たちが騒動に対して当たり障りのないコメントをするのも、自分が「村八分」の対象とならないための行為と見ればわかりやすい。それに対して、旧システムに属さないネット民が、こぞってそれを批判したことも理解できよう。
・このような所属型システムの対極にあるのが契約型システムである。こちらのシステムでは一回ごとに売り手と買い手が契約を結んで取引をする。形態としては市場におけるスポット的な売買に近い。米国ではエンターテインメントの世界でも、俳優らが事務所に所属するのではなく、制作スタジオと直接契約を結んで労働を提供する。もちろん、契約型システムも万能ではない。一人ひとりの俳優の交渉力は弱く、搾取されかねないため、組合をつくって制作会社側に対抗する。
・この契約型システムでは、一部のトップスターのギャラが高騰することが知られている。それだけの価値を生み出しているのだから当然と考えるか、世の中は不平等だと考えるかは意見が分かれるだろう。もっとも、トップスターのギャラの高騰によって業界全体の発展に支障が生じてしまっては元も子もない。スター選手のギャラの高騰に悩むスポーツの世界では、様々な方策でチームの財政と個人の権利のバランスの維持に腐心している。

 所属型システムと契約型システムとの優劣論はあまり問題にならない。それよりも、それが社会の仕組み・在り方の反映であることに着目すると、この日本的な所属型システムは、きわめて天皇制的であると言えよう。
 そして、この論説での最大の興味ある論点は、この伝統的なシステムが、崩壊・変革されることがあり得るのか、という問題である。
 その条件として、松井は次のように言う。

《さて、日本の芸能界のような所属型システムを維持するためには競争環境=市場が存在しないことが前提条件となる。あるシステムからそれと競争関係にある別のシステムに低コストで移動できれば、抑止力は働かない。村八分は村から出ることにコストがかかる場合にのみ有効な手段なのである。》
《ネット市場という新システムがマスメディア共同体という既存のシステムを揺るがし始めた。既存のシステムが新システムを取り込んでいくのか、既存のシステムが新システムに駆逐されていくのか。しばらくは共同体と市場のせめぎ合いから目が離せない。》

 市場は「新システム」による場合もあろうし、「グローバル化」という試練の場合もあろう。いずれにせよ、それによって、日本社会・文化の基層に骨がらみに埋め込まれた伝統的な日本的システム(その象徴として「天皇制」と呼んでもいい)が、本当に転換・変質・崩壊・変革することがあり得るのだろうか?
 実はここに至ってもなお、私は否定的・懐疑的であるのだが…
posted by tabatabunsi at 22:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。