2016年03月29日

「天声人語」の劣化…

 最近のこの欄の劣化状態は改めて言うまでもない。しかし今日のはひどい。

《『この国のかたち』で司馬遼太郎さんが述べている。〈明治の夏目漱石が、もし昭和初年から敗戦までの“日本”に出遭(であ)うことがあれば、相手の形相(ぎょうそう)のあまりのちがいに人違いするにちがいない〉▼戦争へ傾斜していく昭和の日本は、明治人の知らぬ猛々(たけだけ)しい顔に変貌(へんぼう)していた。そんな意味であろう。単純になぞらえる気はないが、戦後の平和憲法下で非戦の時代を生きた世代は、この先、顔つきの異なる日本と相まみえるのかもしれない》

 司馬遼太郎を引用するのはコラムとしては最も安易で怠惰なやり方であるが、それはいいとする。切り取りの拙劣さもいいとする。しかしあまりにも考えがなさ過ぎる。思索力の劣化だ。
 昭和は「明治人の知らぬ猛々しい顔に変貌」だと?
 それでは訊く。歴史年表を繰れば、日清(明治27年)・日露戦争(明治37年)はもとより、台湾出兵(明治7年)、甲申事変(明治17年)、北清事変(明治33年)、韓国併合(明治43年)等は明治時代である。大逆事件も明治43年だ。
 これがどうして「猛々しい顔」ではないのか?
 顔の印象だけからいえば、明治天皇は昭和天皇よりも猛々しい威厳があり、重臣等も同じである。
 問題は顔の猛々しさにあるのではない。帝国主義の勃興期の已むを得ざる面もあった事変・戦争ではなく、その終末期の血迷った錯乱状態から引き起こされた戦争・事変であることが問題なのである。
posted by tabatabunsi at 19:06| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月12日

期待を込めて…

 朝日新聞・3月12日の大震災追悼の記事(1面)から抜粋する。

《追悼式には、天皇、皇后両陛下をはじめ約千人が参列。安倍晋三首相は式辞で「魅力ある地方の創生につながるような復興を実現していく」と決意を示した。
 天皇陛下は「私どもの関心の届かぬ所で、いまだ人知れず苦しんでいる人も多くいるのではないかと心に掛かります」と気遣い、「国民が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います」と述べた。》

 どうして地方創生や復興実現を目指しての決意を述べる首相の式辞よりも、苦しみに寄り添う心を訴える天皇の言葉の紹介の方が長いのだろうか。民主国家のあり方として、これは逆ではないだろうか。しかも4面には「天皇陛下のおことば」が全文掲載されているのに対して、首相の式辞は要旨のみである。朝日新聞は君主天皇制を期待しているのだろうかと錯覚させられる。

 天皇の言葉はたしかに感銘深い。しかし私には、これはどこかよそ事の言葉――どこか外の国からやってきた人、あるいはこの地上ではない、天上からの言葉のように感じられた。これが日本の象徴天皇の位置なのだろうか。
 もし首相が「私どもの関心の届かぬ所で、いまだ人知れず苦しんでいる人も多くいるのではないかと心に掛かります」などと言ったとすれば、そんな御託を並べるよりも早く実行しろ、と怒声を浴びせられるだろう。国民は現実問題よりも心の慰藉を必要としている。そう朝日新聞は考えているのだろう。これは日本人の心の奥底を見事に洞察しているのかも知れない。私個人は不服だが…。

 ちょうど今日、『宇治拾遺物語』の一章「静観僧正、雨を祈る法験の事」を読んでいた。醍醐天皇の時、旱魃が激しくて「帝を始めて、大臣、公卿、百姓人民、この一事よりほかの嘆きなかりけり」というところである。やはり帝より始めなければ始まらないのである。

 17面オピニオン欄に、「東日本大震災5年 私たちは変わったのか」(5)「公と私」の記事があった。三人の意見があるが、その中で、牧原出(東京大学教授)の所見が啓発的であった。

・「3・11」で、政府の行動に何よりも求められるのは峻厳さだと、国民は体感した。巨大で深刻な問題に、時機を逸することなく、断固として的確に手を打たねばならないという国家の役割が国民にはっきり見えた。冷戦終結後の1990年代には、物事は社会や市場で解決されるだろうという楽観的なガバナンス論が広がった。その考えに立った最後の政権が民主党政権ともいえる。ところが2008年のリーマン・ショックでは、市場の暴走に国家がしっかり対峙すべきだという考えが浮上した。こうした考え方を、震災は押し広げた。
・第2次安倍政権が発する「この道しかない」というメッセージも、震災後の雰囲気の中で出るべくして出てきたものであった。政権が3年余り続き、政治制度への信頼が一定程度つなぎとめられたことは大きい。仮に安倍政権がまた1年で代わっていたならば2度政権交代してもこれか、選挙に行っても無駄なのか、といった深刻な政治不信が広がりかねなかった。…

 この分析は、民主党政権に期待し、かつ失望した当時の私自身の気持をよく表現してくれている、と感じた。
 と同時に、この記事は、今後の政権交代への期待可能性にも触れている。
 この点は、私はかなり悲観的・否定的であるが、しかし期待可能性が幾分でもあれば、それを見たいとはやはり思っている。「国家に峻厳さを求めながらも政府の言いなりにはならないという声の集合が、これからの政治状況や社会を決めていくと思います」という結論に、私も今後の――それは勿論、かなり長期的な展望の上でなければ実現しないだろうが――期待を込めて見つめたいと思うのである。

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(資料・1)天皇陛下のおことば(全文) 震災追悼式
 東日本大震災から5年が経ちました。ここに一同と共に、震災によって亡くなった人々とその遺族に対し、深く哀悼の意を表します。
 5年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により、2万人を超す死者、行方不明者が生じました。仙台平野を黒い壁のような波が非常な速さで押し寄せてくるテレビの映像は、決して忘れることができないものでした。このような津波に対してどのような避難の道が確保できるのか暗澹(あんたん)たる気持ちになったことが思い起こされます。また、何人もの漁業者が、船を守るために沖に向け出航していく雄々しい姿も深く心に残っています。
 このような中で、自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体関係者、さらには、一般市民が、厳しい状況の中で自らの危険や労をいとわず救助や捜索活動に携わったことに深い感謝の念を抱いています。
 地震、津波に続き、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染のため、多くの人々が避難生活を余儀なくされました。事態の改善のために努力が続けられていますが、今なお、自らの家に帰還できないでいる人々を思うと心が痛みます。
 こうした苦難の中で、政府や全国の地方自治体と一緒になって、多数のボランティアが被災者のために支援活動を行いました。また、160を超える国・地域や多数の国際機関、また在日米軍が多大な支援に当たってくれたことも忘れることはできません。
 あれから5年、皆が協力して幾多の困難を乗り越え、復興に向けて努力を続けてきました。この結果、防災施設の整備、安全な居住地域の造成、産業の再建など進展が見られました。しかし、被災地で、また避難先で、今日もなお多くの人が苦難の生活を続けています。特に、年々高齢化していく被災者を始めとし、私どもの関心の届かぬ所で、いまだ人知れず苦しんでいる人も多くいるのではないかと心に掛かります。
 困難の中にいる人々一人ひとりが取り残されることなく、一日も早く普通の生活を取り戻すことができるよう、これからも国民が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。
 日本は美しい自然に恵まれていますが、その自然は時に非常に危険な一面を見せることもあります。この度の大震災の大きな犠牲の下で学んだ教訓をいかし、国民皆が防災の心を培うとともに、それを次の世代に引き継ぎ、より安全な国土が築かれていくことを衷心より希望しています。
 今なお不自由な生活の中で、たゆみない努力を続けている人々に思いを寄せ、被災地に一日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。

(資料・2)(東日本大震災5年)私たちは変わったのか:5 公と私
「政治問う声、社会決める」 牧原出さん(東京大学教授)
 「3・11」で、政府の行動に何よりも求められるのは峻厳(しゅんげん)さだと、国民は体感しました。巨大で深刻な問題に、時機を逸することなく、断固として的確に手を打たねばならないという国家の役割が国民にはっきり見えたのです。
 冷戦終結後の1990年代には、物事は社会や市場で解決されるだろうという楽観的なガバナンス論が広がりました。その考えに立った最後の政権が民主党政権ともいえる。ところが2008年のリーマン・ショックでは、市場の暴走に国家がしっかり対峙(たいじ)すべきだという考えが浮上した。こうした考え方を、震災は押し広げました。
 第2次安倍政権が発する「この道しかない」というメッセージも、震災後の雰囲気の中で出るべくして出てきたものでした。
 とはいえ、政権が3年余り続き、政治制度への信頼が一定程度つなぎとめられたことは大きい。仮に安倍政権がまた1年で代わっていたならば2度政権交代してもこれか、選挙に行っても無駄なのか、といった深刻な政治不信が広がりかねませんでした。
 意思決定は峻厳であっても例えば原発をどう使い続けるのか、金融政策の出口戦略をどう描くかなど長期的問題について、今の政権が具体的に発信しているとはいえない。「今、ここで決める」ことは重視しても、先々を見通して考えることは苦手なのです。
 自民党自体も、長期戦略に乏しい。政権奪還から3年も経ったのに、安倍氏の後継が見えないのは、自民党の抱える最大の問題でしょう。
 ここで国民の側に改めて求められるのは、政権交代が今後も繰り返し起きることを前提に政治を考えることです。
 与党が弱くなると野党が強くなり、与党の政策が行き詰まると野党に人が集まる。それで政権交代が起きます。今の与党が弱くなったら野党に何をさせたいか。そんなことを私たちは常に考え、政治に問いかけていく必要がある。それが政権交代が常態である時代の政治なのです。
 その意味で、震災後、反原発や安保法制反対などで街頭デモの動きが活発になっていることに注目しています。特に東京など東日本でそれが顕著なのは、大震災発生直後の、暗く、日常的な秩序が失われてしまった街を、多くの人がひたすら歩いた体験も影響を与えている気がします。
 震災発生時たまたま東京にいて大勢の人たちと歩いた私の個人的な印象ですが、街が「声を出しうる場」として意識され、それが人々の意思決定や行動の幅、声の出し方を広げたのではないか。
 国家に峻厳さを求めながらも政府の言いなりにはならないという声の集合が、これからの政治状況や社会を決めていくと思います。
 (聞き手・永持裕紀)
     *
 まきはらいづる 1967年生まれ。専門は政治学、行政学。震災当時、東北大学公共政策大学院長だった。2013年から現職。
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2016年03月04日

坂口安吾の「真珠」…

 2月24日の本欄で、坂口安吾の作品に触れた中で、この作品の遠近法が取りにくいと書いた。改めて『定本 坂口安吾全集』第二巻の奥野健男の解説を調べてみた。
 関連の箇所を引いておく。

《安吾は太平洋戦争の開戦を、小田原への旅行中に知る。「あなた方は九人であった」と真珠湾特攻隊の勇士に呼びかけるような文体ではじまる「真珠」は切なく美しい小説である。十二月八日前後の、小田原にドテラをとりに行きガランドウという看板屋たちの飲み暮す、自分たちの八方破れのデカダンスの生活と、まるで遠足にでも行くように真珠湾へ、いや死におもむいた九人の勇士たちの純粋な心情とを鮮やかに対比させる。天地雲泥の差のあるこの二つの人生の中に、作者はある共通したものを見せている。それは死と対決し、死を見つめ、そして死をなくしてしまうことである。全身全霊を捧げ、無私無欲になった澄み切った切なさ、美しさ、これは「文学のふるさと」にも、「日本文化私観」にもまた戦後の「堕落論」の中の、空襲下の日本のうそのような美しさを描いた美学にも共通する心境である。それにしても、あの一億一心が唱えられ、言論統制も厳しく、すべての日本人がこちこちになっていた開戦当時にヤンキーやパリジャンなどは鼻唄を歌って死地に赴けるのではないかと発言したり、あるいは軍神と自分たちのだらしない生活を比較する発想は、まことに大胆不敵であり、そのフレキシブルな精神の自在性には驚嘆するほかはない。この作品は人々に深い感銘を与えたが、創作集「真珠」は、軍神を冒瀆し、反戦厭戦的な非国民的小説だという理由からであろう、再版は不許可になり、発行を禁止された。戦後この小説を、反戦小説、抵抗小説として評価する者と、安吾らしからぬ戦争礼讃、軍神讃美の便乗的戦犯的小説として批判する者とのそれぞれの意見があったが、そのどちらも当っていない。先に述べたように安吾の美学は戦争下も戦後も変っていない。ただ安吾は自分の心をうちふるわす切ない美しさに感動し、一篇の真珠のような散文詩をつくりあげただけなのだ。》

 やはり戦後になって、この小説には二つの相反する意見があったのである。反戦小説・抵抗小説という評価と、戦争礼讃・軍神讃美の便乗的戦犯的小説であるという批判と…。
 奥野の言うように、「安吾の美学は戦争下も戦後も変っていない」のである。それが「真珠」という題名に象徴されているかのように。
 この二つの評価は時流というものの果敢なさと、イデオロギー的決めつけのつまらなさとをよく示している。私としてはやはり、この作品が戦時下に書かれていることに感銘を覚えるのである。
posted by tabatabunsi at 23:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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