2016年05月31日

『実録』メモ ㉖諸臣参賀の席次

 このメモを書いていて、大概のことは予想の範囲にあり、そう吃驚することなどは滅多にないのだが、今回は調べていての最後に驚かされた。そんなことが今でもあるのだとは、迂闊なことながら全く知らなかったのである。

迪宮裕仁誕生の一か月後、明治34年5月30日「諸臣参賀」の標目記事にはこうある。
《皇太子妃御出産・親王御誕生につき、大勲位・親任官・公爵・従一位・勲一等・麝香間祗候・錦鶏間祗候・各庁長官・警視総監・東京府知事・貴族院議長・衆議院議長・宮内省高等官その他による宮城及び東宮御所への参賀が、本日より五月二日まで行われる。》
 私が気になったのは、この順番の基準が何かということである。「ウィキメディア」で「宮中席次」を調べてみた。
 それによると明治時代以前から、公卿たちの手によって整えられた「伝統的な宮中座次」が存在していたという。(詳細は下記「伝統的宮中座次」の節を参照)それを1926年(大正15年)の皇室儀制令によって制度化したのが、いわゆる戦前の「宮中席次」である。本来は単なる宮中行事の席次表であったが(明治時代には「儀式上ニ限ル席次ニシテ敢テ職務上ニ関スルモノニ非ス」との但書きがあった)、内閣総理大臣臨時代理を設ける際に宮中席次最高位の閣僚が務めるなど、次第に政治的意味も持つようになったらしい。
 この儀制令では席次は10階70位の別があった。敢えて煩雑を犯してすべてを挙げると、次のようになる。

第1階
第1 : 大勲位 (1 菊花章頸飾、2 菊花大綬章)
第2 : 内閣総理大臣
第3 : 枢密院議長
第4 : 元勲優遇のため大臣の礼遇を賜った者
第5 : 元帥、国務大臣、宮内大臣、内大臣
第6 : 朝鮮総督
第7 : 内閣総理大臣又は枢密院議長たる前官の礼遇を賜った者
第8 : 国務大臣、宮内大臣または内大臣たる前官の礼遇を賜った者
第9 : 枢密院副議長
第10 : 陸軍大将、海軍大将、枢密顧問官
第11 : 親任官
第12 : 貴族院議長、衆議院議長
第13 : 勲一等旭日桐花大綬章
第14 : 功一級
第15 : 親任官の待遇を賜った者(親補職)
第16 : 公爵
第17 : 従一位
第18 : 勲一等(1 旭日大綬章、2 宝冠章、3 瑞宝章)
第2階
第19 : 高等官一等(勅任官)
第20 : 貴族院副議長、衆議院副議長
第21 : 麝香間祗候
第22 : 侯爵
第23 : 正二位
第3階
第24 : 高等官二等(勅任官)
第25 : 功二級
第26 : 錦鶏間祗候
第27 : 勅任待遇
第28 : 伯爵
第29 : 従二位
第30 : 勲二等(1 旭日重光章、2 宝冠章、3 瑞宝章)
第31 : 子爵
第32 : 正三位
第33 : 従三位
第34 : 功三級
第35 : 勲三等(1 旭日中綬章、2 宝冠章、3 瑞宝章)
第36 : 男爵
第37 : 正四位
第38 : 従四位
第4階
第39 : 貴族院議員、衆議院議員
第40 : 高等官三等
第41 : 高等官三等の待遇を享ける者
第42 : 功四級
第43 : 勲四等(1 旭日小綬章、2 宝冠章、3 瑞宝章)
第44 : 正五位
第45 : 従五位
第5階
第46 : 高等官四等
第47 : 高等官四等の待遇を享ける者
第48 : 功五級
第49 : 勲五等(1 双光旭日章、2 宝冠章、3 瑞宝章)
第50 : 正六位
第6階
第51 : 高等官五等
第52 : 高等官五等の待遇を享ける者
第53 : 従六位
第54 : 勲六等(1 単光旭日章、2 宝冠章、3 瑞宝章)
第7階
第55 : 高等官六等
第56 : 高等官六等の待遇を享ける者
第57 : 正七位
第8階
第58 : 高等官七等
第59 : 高等官七等の待遇を享ける者
第60 : 従七位
第61 : 功六級
第9階
第62 : 高等官八等
第63 : 高等官八等の待遇を享ける者
第10階
第64 : 高等官九等
第65 : 奏任待遇
第66 : 正八位
第67 : 功七級
第68 : 勲七等(1 青色桐葉章、2 宝冠章、3 瑞宝章)
第69 : 従八位
第70 : 勲八等(1 白色桐葉章、2 宝冠章、3 瑞宝章)

 最初の「大勲位・親任官・公爵・従一位・勲一等・麝香間祗候・錦鶏間祗候・各庁長官・警視総監・東京府知事・貴族院議長・衆議院議長・宮内省高等官その他」という序列は儀制令と大筋で一致しているが、例えば貴族院議長の位置が曖昧である。これは儀制令では「勲位」「爵位」の序と「各庁長官」以降の行政職の序とが混然として配置されており、貴族院議長は公爵よりも上位にあるのに、明治34年段階ではこれが整足されていなかったことによるものであろう。

 その後はどうなったか。
 第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)12月には、貴族院・衆議院両院の議長が第6位に繰り上げられるなどの改正が行われたという。廃止ではなく、改正である。むしろこのこと自体が驚きである。進駐軍もそこまでは容喙しなかったということだろうか。日本では革命はすべからく外圧によって、それによってのみ、成立するということの見本みたいな話である。
 その後、日本国憲法が施行された1947年(昭和22年)5月3日には皇室儀制令が廃止され、宮内府の内部規程である宮中席次暫定規程が定められた。さらに1950年(昭和25年)7月1日宮内庁長官通知では、次のようになっている。

1 : 大勲位(1 : 菊花章頸飾、2 : 菊花大綬章)
2 : 内閣総理大臣
3 : 衆議院議長、参議院議長
4 : 最高裁判所長官
5 : 国務大臣
6 : 衆議院副議長、参議院副議長、最高裁判所判事、会計検査院長、宮内庁長官
7 : 特命全権大使、検事総長
8 : 侍従長
9 : 認証官、国家公安委員
10 : 勲一等旭日桐花大綬章
11 : 従一位
12 : 勲一等(1 : 旭日大綬章、2 : 宝冠章、3 : 瑞宝章)
13 : 衆議院議員、参議院議員
14 : 都道府県知事
15 : 公務員
正二位以下有位者
勲二等以下有勲者
備 考
正二位以下勲三等までは十二級職の次
正四位以下勲八等までは九級職の次
位勲の順位は正二位従二位勲二等(一、旭日重光章 二、宝冠章 三、瑞宝章)として三位以下之に準ずる。

 こういう位階秩序が今も厳然とある!
 いや、驚いた。調べていて、こういう結果になるとは思いもよらなかった。まさか今の世にまだ正・従の位があったとは。王朝からずっと続いているのだ、我が日本史は、連綿と…。アトランダムに検索していたら、日本国憲法施行後に従四位を受けた人の名に
「秋山駿 文芸評論家 2013年10月2日 日本藝術院会員」
とあったのには驚き、そして笑ってしまった。
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2016年05月30日

『実録』メモ ㉕里子の風習

 人間の養育というのは色心の両面に亙るものだ。養は肉体面、育は精神面と言えよう。理想の養育環境とはどういうものだろう。

 明治34年7月7日の「川村純義邸に御移転」(前引、K「賜謁の意味」)の前提として、その前から親王・内親王誕生の際の方針が東宮輔導顧問会議において議論されていたことが述べられている(「川村純義に御養育委嘱の経緯」)。ちなみに明治天皇から嘉仁皇太子(大正天皇)のための教育係である東宮輔導として任じられたのは有栖川宮威仁親王であった。1899年(明治32年)から1903年(明治36年)まで。他に『実録』には大山巌が東宮輔導顧問として登場している(「第一」14ページ)。会議のその他のメンバーは詳らかではない。
 それによると、当初、養育担当者の候補として、男爵揖取素彦・侯爵西郷従道などの名も挙げられたが、伯爵川村純義が養育の最適任者とされた。その際、「皇太子妃にとっては初めての御養育となり、東宮御内儀においては御養育の経験を持つ者がいないため、今回は御養育担当者に委ねるべし」との意見が添えられたという。
 川村の養育についての所信は、正式受諾を前にした5月5日付『国民新聞』に掲載された以下の文が紹介されている(「川村純義の所信」)。
 そこで川村は、4点を挙げている。なるべく原文に即して紹介したい。
(1)将来の皇太子・天皇たるべき人の養育の理想目標
《皇長孫御養育の重任に膺るものは、殿下が後日帝国に君臨して陛下と仰がれ給ふべきを理想として養育し奉るの覚悟なかるべからず。而して第一に祈念すべきは心身共に健全なる発育を遂げさせ給はんことなり。》
(2)養育環境としての父母・兄弟との交わり
《人君たるものは御親子の愛情御兄弟の友情皆臣民の模範たらざるべからず。されば御父たる皇太子殿下御母たる妃殿下が常に皇孫の御養育を監視し給ひ、御養育の任に当るものも常に両殿下の御側近くにて養育しまつるを勉めば御親子の愛情愈々濃かなるべく、而して今後降誕あるべき皇孫は御幾人あるとも同じ御殿に於て養育し奉り、御遊戯にも御食事にも御勉学にも机を同じくし卓を同じくし庭を同じくせらるるあらば、皇子女の御友情も敦く心身の御発達健全にして行く行く臣民の模範となり給ふべし。/畏多きことながら封建時代に於ける大名教育の如き弊はゆめゆめあるべからず。?駝師が植木を曲げて天然に反する発育をなさしむるは大名教育の著しき弊害なりき。》
(3)精神・人格面の啓発
《御養育の任に当るものは物を恐れず人を尊むの性情を御幼時より啓発し奉り、又た難事に耐ゆる習慣を養成し奉るの覚悟をなし、天稟の徳器に気儘我儘の瑕を一点にても留めまつるが如きこと決してあるべからず。幼児の養育は此を以て肝要とす。尊貴の方々に於て特に然りとす。》
(4)国際的な視野
《日本も既に世界の列に入りて国際社会の一員たる以上は子女の教養も世界的ならざるべからず。特に後日此の一国に君臨し給ふべき皇孫の御教養に関しては深く此点を心掛けざるべからず。/皇孫の成長し給へる頃に至りて彼我皇室間及び国際の交際愈々密接すべきことを予測すれば、御幼時より英仏其他重要なる外国語の御修得御練習を特に祈望せざるべからず。》

 いずれも正論であろう。こういう理想に基づく皇子迪宮の人格形成の結果がどうであったかは、彼の生涯の軌跡をたどっての検証に俟たなければならない。ただここで注目したいのは、(2)の養育環境についてである。ここでは、家庭教育の重要性が強調されている。それなのに、迪宮を里子に出したのは何故か。なぜ、迪宮裕仁が生後すぐに川村純義の手によって養育するように委嘱されたのか。
 この点は、すでに私は「O乳人とメノトと」(2016.5.11)と「S叔母宮たち」(5.16)でも触れてきた。それについての補足として考えてみたい。
 この川村の所信では、「将来帝国に君臨して陛下と仰がれ給ふ」立場としての心身の練磨が強調されている。
 宮本常一は「里親・里子」という文章の中で、こう述べている。(『宮本常一著作集』第八巻)
《うまれたばかりの子供を、里子にだす習慣は、京都大阪地方にあり、京都周辺の村々や、生駒山麓の村々では、古くから京都の公家や町家の子供あるいは大阪の町家の子供を、ひきうけて育てていた。この場合、子をひきうける方は、たいてい、自分も子をうんだばかりで、乳も十分にある女であった。(中略)
 この習慣がいつごろからおこったか明らかでないが、はじめは京都の公家の間でおこった習慣ではないかと思われる。子供を親のそばにおくと、柔弱になってしまうというので、附近の田舎へたのんだのであろう。その中心地は、洛北の岩倉であった。(中略)
 京都の公家たちが、貧しい生活にたえ、ある底力をもって、明治維新の際、下級武士に対応してたち上ったのは、たんなる長袖者として、日々を儀礼の中にすごしたためではなく、幼少児を庶民の中で生活させて、素朴にして力強いものを身につけていたためであると見られる。》
 澤村修治も、同じように「人の上に立つ者になるため、親の情愛から離して厳しく育てる必要があったからだ」と言っている(『天皇のリゾート』87ページ)。
 そうすると、皇室の里子慣例には、「触穢説」「宮中忌避説」の他にも、こうした「練磨育成説」の面もあるということになる。これらは互いに排斥しあう要因ではないから、いずれもが妥当に成立するのだろう。ただ、私自身は、前に述べたように、「触穢説」が最も根本要素ではないのかという気がする。しかし歴史的に変遷してくると、様々な必要性から里子風習が広く成立したのだろうと思われる。関西に特に多いという点では、例えば大阪生まれの司馬遼太郎が乳児脚気のために3歳まで母親の実家である奈良県北葛城郡に預けられたという例もある通りである。

 ただここで川村が「御父たる皇太子殿下御母たる妃殿下が常に皇孫の御養育を監視し給ひ」と言い、「今後降誕あるべき皇孫は御幾人あるとも同じ御殿に於て養育し奉り、御遊戯にも御食事にも御勉学にも机を同じくし卓を同じくし庭を同じくせらるるあらば、皇子女の御友情も敦く心身の御発達健全にして行く行く臣民の模範となり給ふべし」と言っているのは興味深い。
 ベルツの日記の中にも、この里子風習については「幼い皇子を両親から引き離して、他人の手に託するという、不自然で残酷な風習」と厳しく批判されているのは周知のことである(明治34年9月16日の項)。
 しかし現実にはこの風習は迪宮の場合にはかなりの成果があったようにも思われる。それでも昭和天皇は、後にこの完全なる家庭的な環境での育児習慣を確立するようになる。
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2016年05月24日

『実録』メモ ㉔皇太子の巡覧

 今度の日光旅行(5月18日)では、最初から今まで行ったことのなかった所、田母沢御用邸と日光植物園、それとついでに金谷ホテル歴史館を見るつもりだった。日光駅でタクシーに乗ると、運転手から「今日の武者行列を見に来ましたか?」と尋ねられ、「違う」と言うと、「折角だから見ていったらいかがですか」と勧められた。
 日光東照宮の春季例大祭で、昨日は流鏑馬神事があり、今日はハイライトの百物揃千人武者行列(神輿渡御祭)があるという。しかも去年はコ川家康の四百年回忌だったので、今年は日光東照宮鎮座四百年祭に当るのだそうだ。それも秋の場合は農繁期なので行列も実際は五百人程度になるが、春のは文字通り千人行列なのである。
 今まで人出の多い祭りなどはむしろ意識的に避けて来たが、これは偶然の機会だから、予定を変更してまず武者行列を観覧してきた。まあ、ハプニングも旅行の楽しみの一つだろうから。

 昭和天皇の場合も、一生のうちに実に多くの旅行をしているのに驚かされる。が、幼少期やあるいは避暑・避寒のための御用邸滞在中などでは、迪宮裕仁もかなり自由な行動だったようだが、これが少し公的な色彩を帯びると、もうそれは銀閣寺から嵐山まで、ギッシリ詰めこみの巡覧になることは必然である。それはある意味では至れり尽くせりの贅沢な大名旅行とも考えられるかもしれない。ともかくその不自由さに同情するよりも、こういう行儀に最初から馴らされてきて、それ以外の人生を知らない人の内面の相貌の在り様について怪訝の念を覚えざるを得ないのである。
 一例を引く。大正2年3月28日伏見桃山陵参拝のため、皇太子裕仁は京都へ行啓する。それが終わってから、3月31日〜4月3日まで、京都市内・周辺の視察をする。その四日間の記事である。

《三十一日 月曜日 京都市内を御視察になる。午前九時御出門、まず東山慈照寺にお成りになる。同寺住持関大鳳及び京都府知事大森鍾一の案内にて銀閣(観音殿)の潮音閣に臨まれ、ついで庭園を御巡覧になる。それより修学院離宮に赴かれ、下御茶屋・中御茶屋を経て、上御茶屋にて御昼餐の後、庭園を一巡される。午後零時三十分御出発、京都府立京都図書館にお成りになり、陳列の書籍、戦死者写真帖等を御覧になる。次に京都市商品陳列所に向かわれ、所長丹羽圭介の説明により電気器械や京都工芸品等を御覧になり、京都市助役加藤小太郎(市長代理)・染織家西村総左衛門・帝室技芸員並河靖之等に謁を賜う。ついで京都市立紀念動物園に赴かれ、園長六浦徹矢の案内により、マングース、人工哺育のライオンの子、水牛など種々の動物を御覧になり、鶴放養地前の丘に五葉松をお手植えになる。三時御出発、動物園南の平瀬貝類博物館にお立ち寄りになる。同館は本月開館した日本初の貝類展示館にて、館主平瀬与一郎の説明にて各種貝類の展示を御覧になる。貝標本三箱及び特にお目を留められたツノガイが献上される。四時十分、二条離宮に御帰還になる。
四月一日 火曜日 京都市内及び紀伊郡内を御視察になる。午前九時御出門、京都帝室博物館にお成りになる。博物館への途次、馬車中より豊国神社門前の耳塚を御覧になる。博物館にてはまず楼上より市内を御展望になり、それより館内にて北野天神縁起・風神雷神図等の陳列品を御覧になる。ついで三十三間堂(蓮華王院本堂、妙法院境外仏堂)にお成りになり、妙法院門跡代理執事奥田公照の案内により一千一体の十一面千手千眼観音菩薩像並びに長廊を御覧になる。十時十分御出発、馬車にて東福寺や伏見稲荷を御覧になり、紀伊郡深草村の第十六師団にお成りになる。司令部師団長室において師団長代理歩兵第十九旅団長西川虎次郎に謁を賜い、管下状況の言上をお聞きになる。続いて京都偕行社にお成りになり、歩兵第三十八聯隊長邦彦王に御対顔の後、師団幕僚・各団隊長に謁を賜い、さらに京都衛戌地在職将校・同相当官に団体拝謁を賜う。玄関右側の小丘に雄松(クロマツ)をお手植えになる。御昼餐の後、伏見の陶工大島敬吉(嘉楽)による粘土細工製作実演を御覧になり、ついで京都練兵場にて騎兵・砲兵の中隊教練、輜重兵の乗馬演習、騎兵の高等馬術、歩兵・砲兵・工兵の連合対抗演習、将校の撃剣等を御覧になる。その後、人力車にて清水寺へお成りになり、本堂舞台、千手堂、音羽の滝、月照・信海・西郷隆盛の詩碑にお立ち寄りになる。次に知恩院において、鶯張の廊下や千畳敷・小方丈・阿弥陀堂等を御巡覧になり、さらに御影堂軒裏の忘れ傘、大鐘楼の鐘撞きを御覧になる。それより人力車にて円山公園を経て祇園石段下にお着きになり、同所より千本二条停留所まで市営電車貴賓車に乗車され、二条離宮に御帰還になる。
二日 水曜日 京都市内及び葛野郡内を御視察になる。午前九時馬車にて御出門、京都市立染織学校にお成りになる。校長金子篤寿・教諭堀田豊治等に謁を賜い、力織機・手織機・藍染・浸染・機械捺染・型紙捺染・描友禅等、在学生及び新卒業生の実習作業及び製作晶を御覧になる。それより葛野郡衣笠村の北山鹿苑寺に赴かれ金閣(舎利殿)に御登閣、京都府知事大森鍾一等より説明を受けられ、二階より池の鯉に御投餌になる。ついで人力車にて花園村へ向かわれ、十一時二十五分御室の仁和寺にお着きになり、金堂・観音堂等を御覧の上、新築の宸殿上段御休憩所にて御昼餐をお召しになる。午後はまず嵯峨村の大覚寺にお成りになる。御冠の間において皇子御養育掛長丸尾錦作より南北朝和睦の話をお聞きになり、紅葉の間、御影堂、安井堂、宸殿等を御巡覧の上、庭園宸殿前に稚松をお手植えになる。次に嵐山に向かわれ、亀山公園にて角倉了以の銅像を御覧の後、茶席舟にて大堰川(保津川)を御遊覧になり、再び公園にて角倉了以銅像裏に雄松をお手植えになる。その後、人力車にて嵯峨停車場に向かわれ、二条停車場まで列車に御乗車の上、二条離宮にお戻りになる。
夕刻、参殿の旧女官に謁を賜う。
三日 木曜日 雨天につき乙訓郡方面御視察の御予定はお取り止めとされ、東宮侍従甘露寺受長を長岡京址並びに乙訓村字芝の竹林へ御差遣になる。午後は一時間ほど二条離宮二の丸を御覧になる。
また邦彦王参殿につき、御対顔になる。》

 まるで詳細なガイドブックをそのまま写しなぞったような巡覧記である。12歳の皇太子の素朴な興味を引いたのはおそらく「マングース、人工哺育のライオンの子、水牛など種々の動物」だけだったのではないか。金閣寺の二階から池の鯉に餌を投げることさえ、企画通りだったのだろうか。裕仁は高度に知的な摂取力を有していたとして、あるいはそのすべてに興味と関心とを持ち、理解し共感したということも考えられるのかも知れない。しかしすべてに公平・平等な視線を投じた結果として得られるのは、好きも嫌いもなく、共感も反発もなく、すべてが一視同仁の対象として映じてくるという不思議な精神・内面構造なのではないだろうか。
posted by tabatabunsi at 21:09| Comment(0) | 『昭和天皇実録』メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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