2016年07月28日

『実録』メモ ㊽師弟としての希典と裕仁

『実録』メモ ㊽師弟としての希典と裕仁――乃木希典との接触(その三)

 司馬遼太郎の小説『殉死』には、幾つかの誤謬があるが、しかしその思想的な洞察はユニークで面白い。
 ここで司馬は、次の二つのことを言っているように見える。
 一つは、陽明学的な系譜というものについての見解である。
 司馬は、その系譜を、中江藤樹・熊沢蕃山・山鹿素行・大石良雄と赤穂浪士・大塩平八郎・春日潜庵・吉田松陰・河井継之助・西郷隆盛等の系列において見ている。
 確かに司馬の言う通り、これらの人々の大半、ほとんどは、結局、その最期を反逆者として終った。あるいは、終わらざるを得なかった。それが宿命だった、とも言えよう。
 しかし、これには、本然的な素質、あるいは体質の問題があるのではないか。
 その点で、裕仁皇太子、後の昭和天皇には、そういうファナティックな資質があったとは到底思えない。むしろ、皇太子裕仁というのは、それとは全く正反対、対極に位置する人間性であると思われてならない。
 というのは、ずっと昭和天皇の実録を追っていくと、どう考えても、この人はファナティックとか、英雄豪傑的なところとか、天才または聖者というような資質はなかったのではないかと思えるのである。(この諸類型の中で、やや近いとすれば、聖者型かも知れない。律儀で実直で、庶民的に素朴で、むしろ野良の中の農夫のようなイメージを私は持っているのだが。)
 もう一つは、乃木と裕仁との関係である。
 司馬は、明治天皇と乃木希典との関係は、いわば前近代的な「郎党と主人」の関係だっただろうと推測している。これは鋭い分析である。そして正しい。
 しかし裕仁には祖父である明治帝のような豪放磊落さがなかった。かといって、父の大正天皇のような、飄逸の人間性にも乏しかった。いずれにせよ、昭和天皇(裕仁皇太子)にはそういう演技者的な素質はなかった。だがそれは、三代目としてはやむを得ない存在資質だったのだろうと思われる。

 してみると、乃木の訓育の効果は、質実剛健、質素な日常という以外にはなかった。
 つまり、出来る限り質素な日常生活を送ることとか、我慢強い性質に育ってほしいとかいうような、いわば現世倫理的な側面では確かに乃木の訓育は効果があった。裕仁皇太子は生来、そういう人だったのだと言えるが、しかしそれを教育効果として語ることも出来ないわけではないものだった。
 生物学者であり、分類・整理学者であった昭和天皇にとっての興味・関心は本来、生物学・博物学という分野でしか生かされないものだった。
 この人は本来的には、決してストレスに強いタイプではなかった。しかし生まれた時から、皇孫として尊敬され、供奉の人も数知れず、至れり尽くせりの人生を決められていたのだった。当然だろうと思うしかない。その結果、この人は、どんなに周囲の環境が変動したとしてもそれに動かされないという姿勢が定まった。これは決して仏教的な意味での悟達ではなかった。それは単純に原始日本的な原型であると言う他はないものだった。

 吉田松陰も乃木希典も、陽明学的な素質の人だった。それに加えて、精神主義とか、神秘主義とか、皇室絶対主義とかの素質もなかったとは言えない。
 しかし、肝腎の、裕仁皇太子にはそういう素質は能う限り無縁だった。そのことが歴史的に良かったのか、悪かったのか、という点で見ると、それには甲論乙駁があるだろうが、しかしそれはそれで、それ以外にはあり得なかったのである。
 それが日本の宿命だった。そこには一人のヒトラーもいないし、アレキサンダーもナポレオンもいない。則天武后も秦の始皇帝もローマ皇帝ネロもいなかった。だがそのことに文句があるのか、と問えば、皆、異口同音に、「文句はない。全くない」という回答が返ってくるだろう。
 そこに日本の、いかにも日本的な特質があり、弱点もあるのだった。プラスとマイナスとを足して併せて、さてどういう結果になるのだろうか。

 **********
参考文献(1から3までの)

司馬遼太郎『殉死』(文春文庫)
荒井桂『山鹿素行「中朝事実」を読む』(致知出版社)
『日本の名著 12山鹿素行』(中央公論社)の解説(田原嗣郎)
『日本思想大系32 山鹿素行』(岩波書店)の解説(守本順一郎)
大濱徹也『乃木希典』(講談社学術文庫)
その他
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2016年07月26日

『実録』メモ ㊼『中朝事実』献上の場面

㊼『中朝事実』献上の場面――乃木希典との接触(その二)

 司馬遼太郎の『殉死』は乃木希典についての評伝的中編小説である。
 司馬は乃木を生来の詩人と見た。かつ軍人としては無能と見た。詩人と軍人とは対極にある存在である。前者はあくまで観念的・夢想的であるのに、後者はあくまで具体的・現実的であるべき存在である。すなわち、詩人においては成敗は問題ではないのに、軍人においてはただ勝敗の結果のみがすべてである、という違いがある。これが人物観における司馬の前提である。それを乃木希典という人間の行跡に照らし鑑みて、司馬は乃木を詩人と見たのである。
 乃木の詩人としての絶唱は満州における詩賦である。曰く、「山川草木転荒涼、十里風腥新戦場、征馬不前人不語、金州城外立斜陽」と。あるいはまた戦後の「皇師百万征強虜 野戦攻城屍作山 愧我何顔看父老 凱歌今日幾人還」の詩。自分の屈辱と自責の念とをこのように詩劇的に昇華する醇気は乃木以外のどの軍人にもなかったと司馬は評しているが、それは乃木の本然であり、作為ではない。そこに真実の詩が誕生した。
 また彼は日露戦争終結の時、敵将ステッセル将軍と水師営で会見したが、乃木の敵将への情愛に満ちた所作は全世界の感動を呼び起こすに足るものであった。その意味でも彼は詩人だった。詩人とは自らの生をして一篇の詩たらしめ、以てその生を完結せしめる人間である。徹頭徹尾、彼は詩人であり、それ以外の何者でもなかった。そういう彼にとって、軍人として無能であるとか、政治感覚がないとかの批判は全く慮外のものであった。
 司馬のこの小説は乃木希典伝としては両義性を持っている。一方では彼の軍人としての無能さを徹底的に剔抉しながら、他方ではその詩人としての本質を言葉を極めて称賛しているのである。基本線として、私はこの見方に賛同する。ある意味では、これは司馬の乃木希典頌である。彼ほど乃木の本質に迫って、しかも主情的な洞察をしぬいた作家はいなかった、と私は思うのである。

 ところでこの小説のなかに、乃木の殉死の三日前、裕仁皇太子との最後の拝謁の場面が印象的に描かれている。
《九月十一日は、かれの死からさかのぼって前々日であった。この日午前六時、かれは赤坂の自宅を出て皇居にむかった。馬を用いず、わざわざ俥を用い、膝の上に風呂敷包みを置いていた。厳密には膝の上でなく、膝から三寸ばかり浮かせ、両掌に載せていた。その様子から察して、よほど大事な品物であるとみられた。
 静子は、べつに不審を抱かなかった。朝の参内はかれにとって恒例のことなのである。このところかれの日課は朝夕に参内して先帝の殯宮を拝し、しかるのち二日に一度、かれにとって生徒である皇孫殿下に拝謁した。厳密には皇孫とよばるべきではなく、すでに帝は没し新帝の代になっている以上、新帝を中心にした呼称がふさわしいであろう。皇太子とよぶべきであった。しかしながら希典はこの裕仁親王をあくまでも皇孫殿下とよびつづけた。親王はすでに十二歳になっていた。
 希典はこの日の前日、退出するとき、御帳簿に細字をもって、「明朝かならず拝謁をたまわりたい」という旨のことを記入した。そのことは無論かなえられた。
 このためこの日、皇孫殿下の扈従者たち――波多野大夫、村木武官長、桑野主事をはじめお付き女官たちは早朝から勤務に就き、希典を待っていた。
 ――あらたまって拝謁を乞うとは、なにごとだろう。
 という疑念がたれの脳裏にもわだかまっていたが、しかしたれもそのことについては話題にしなかった。
 その朝、希典は家を早く出すぎたようであった。御門のみえるあたりでそれに気づき、俥を捨て、徒歩をもって広場を横切り、御門に入ってからしばらく時間を消すために佇立した。近くの松を見あげ、遠くの松をながめた。どこか詩でも作りたげな風景であったが、しかし詩のことは考えていなかった。漢詩をつくるのはそれなりの集中と気根の要る作業であり、希典はここ数年ついぞ作っていない。詩をつくる体力がなくなっていた。そのかわり、和歌をつくるようになった。しかし希典の発想、情感は和歌という形式や調べにむかないらしく、あまりうまくはなかった。なにごとにも好みが強烈であり、美醜で物事をきめたがるこの性癖のもちぬしは、ひらがながきらいであった。男子はカタカナをつかうべし、あれは武骨でいい、とひとにも言ったりしたが、和歌というものの発想はひらがな文字の感触と無縁でない以上、かれに適わなかったのであろう。しかし漢詩をつくらなくなってから、和歌を詠むことに熱心になった。ひとに添削を乞うたりもした。
 かれはすでに辞世のためのものを用意していたが、その辞世はかれが得意とした漢詩でなく和歌であった。うつし世を神去りましし大君のみあと慕ひてをろがみまつる、というものであり、しかし日が経つにつれてその下の句が気に入らなくなり、常住心にかかっていた。ところが昨夜、ふと想を得、気持がおちついた。をろがみまつるをやめ、われはゆくなりということにかえた。大君のみあと慕ひてわれはゆくなり、というほうがしらべもととのい、希典の気持にふさわしくおもわれた。
 希典は、参内した。
 午前七時である。かれは控室でわずかな時間待ち、ほどなく廊下へ出、拝謁の部屋に案内された。部屋は和風で、畳の上に絨緞がしかれ、その上にテーブルがおかれている。しかし椅子はおかれていなかった。
 希典は、立ったまま待った。やがて皇太子裕仁親王、それに淳宮、光宮があらわれ、三人一列に横にならばれた。波多野大夫、村木武官長は別室にさがり、御養育掛の土屋子爵と女官二人が部屋に残った。
 希典は、拝礼した。
 親王たちは答礼した。裕仁親王は学習院の制服に喪章をつけていた。
「まことにおそれ入りまするが」
 と、希典は御養育掛にいった。お人ばらいが願わしゅうございます、というのである。このことは異例であり、御養育掛土屋子爵はちょっととまどったが、しかしすぐ決断し、みなに目くばせをした。一同、廊下へ出た。廊下は一間の畳敷きであった。
 ――そのお障子を。
 とまで希典は要求した。部屋と廊下のあいだに厚い唐紙障子がある。それを締めてもらいたいというのである。女官はおだやかに一礼し、それをしめた。このため、部屋は三人の皇子と希典だけになった。
 希典は、卓子へすすみ、そのうえに風呂敷包みをのせ、それを解き、なかのものをとりだし、それをちょっと頂き、すぐ卓上にのせた。書物であった。希典はその書物を三皇子にむかってひろげた。
「この書物は、『中朝事実』と申しまする」
 といった。希典が手写したものであり、さらにかれ自身の手でところどころに朱註を入れてあった。
「むかし、山鹿素行先生と申されるひとが」
 と、この書物の由来とその著者についての概要を説明した。その説明だけで五十分以上の時間を要した。さらにかれらが気づいたときは、希典はこの書物のところどころを読みあげ、その内容について講義をしはじめていることであった。漢文と漢語をまじえての話は十二歳の兄宮でもむりであったであろう。まして二人の幼童にとってはこの老人がなにをしゃべっているのか、すこしもわからなかった。
 二人の幼童は、それでもそのあと三十分ばかり立っていたが、ついにたまりかね、まず淳宮が駆けだした。光宮がそのあとを追った。かれらは重い唐紙障子をあけ、廊下へとびだした。このため、廊下でひかえている人びとの目に、なかの様子がよくみえた。
 ――なにごとが行われているのであろう。
 と、たれしもが息を詰めたほどにそれはただごとでない風景であった。希典の半顔が濡れていた。顔をまっすぐにあげたまま涙がとめどもなくくだっており、しかも声は歇むことがなかった。
 裕仁親王はすでに十二歳であるだけにこの場から逃げだすことはせず、しつけられたとおりの姿勢で立ちつづけていた。
 希典の思想と精神はつねに劇的なものを指向し、その行動と挙動は自然劇的なものを構成しがちであったが、その生涯においてこのときほどそうであったことはないであろう。かれは「中朝事実」を演述しつつも帝王としての心掛けをこの親王に説いていた。希典にはかれをおびえさせている危機感があり、それはこの国家のゆくすえのことであった。日露役後瀰漫しはじめたあたらしい文明と思潮のなかでこの国は崩壊し去るのではないかということであり、そのことはひとにも語っていた。国民のあいだで国家意識がなくなってきたのではないか、という質問をうけたとき、かれはそれを認めるのがこわいというふうにはげしくかぶりをふった。国民はりっぱである、とかれはいった。ひとりひとりはきわめて立派である、と言いかえた。しかし底が抜けてしまった、と最後にいった。底とは忠君思想であろう。
 愛国であってもならない。この点についてかれの思想を、十七世紀の政治思想家である山鹿素行が代弁してくれている。「それ、天下の本は国家にあり、国家の本は民にあり、民の本は君にあり」と、素行は「中朝事実」のなかで説いた。「民にあり」というところまでは儒教思想であったが、「民の本は君(天子)にあり」というところの、希典のいう「底」のところで素行は時の政権から忌避された。素行はこの思想のために暗澹とした後半生を送ったが、希典は逆にこの思想が時代思想であったときに成人し、栄爵を得た。その思想が国民のなかから退潮しようというきざしのみえるときに希典はその晩年を迎えた。いま死のうとするとき、その憂心はたれに語り残すべきであろう。かれはすでに軍部から慇懃なかたちで疎外されていた。学習院でもかならずしも生徒のあいだでかれは魅力ある教育者としては映っておらず、著述して世に問うにも、かれは世を納得させるだけの論理の力をもっていなかった。かれに残された警世の手段は、死であった。かれは自分のおよそ中世的な殉死という死がどのような警世的効果をもつかを、陽明学の伝統的発想を身につけているだけにこのことのみは十分に算測することができた。しかしかれのいまの涕涙はそれではなかった。すでに老残であることを知っているかれは、たれに相手にされなくてもこの眼前にいる少年にだけは言い残したかった。この少年は将来数十年後にはこの国の帝になるはずであり、その点で他の者とはちがっていた。さらにこの少年だけは他の者とちがい、自分のいうことを素直に聴いてくれる少年であり、げんにいまも聴いてくれていた。この少年の律義さを希典はつねづね景仰していたが、なんという美質であろう。少年はじっと立ちつづけていた。もっとも少年はその美質をもって立姿の姿勢をとっているのであり、希典の演述を理解しているかどうかについては、じつのところ希典にとってもよくわからなかったであろう。
「この『中朝事実』は」
 と、希典は卓上のものを両掌でさし示しつつ、あるいは殿下にとって訓読がまだごむりかと存じまするが、ゆくゆく御成人あそばされ、文字に明るくおなり遊ばしたあかつきにはかならずお読みくださいますよう、このように手写し、献上つかまつる次第でござりまする、と希典はいった。
 希典の講述はおわった。このとき皇儲の少年は、不審げに首をかしげた。
「院長閣下は」
 といった。かれは乃木とよばずこのような敬称をつけてよぶようにその祖父の帝の指示で教えられていた。
「あなたは、どこかへ、行ってしまうのか」
 少年はそう質問せざるをえないほど、希典の様子に異様なものを感じたのであろう。この声はひどく甲高かったために、廊下にいる女官たちの耳にまではっきりきこえた。
「いいえ」
 と、それをあわてて否定した希典の声も、廊下まで洩れた。
「乃木はどこにも参りませぬ。ただ英国のコンノート殿下の接伴員をおおせつけられておりますので、このところしばらくのあいだ……」
 とまで言い、あとは言葉を消した。しばらくのあいだ乃木は参殿できませぬ、ということばを省いたのであろう。
 希典は、退出した。》
 事実としては、不審点がいくつかある。
『昭和天皇実録』によると、この献上は明治45年(大正元年)9月10日のこととされている。記事は「午前十時四十分、学習院長乃木希典参殿、拝謁申し出につき謁を賜う。乃木は『中朝事実』を献上して退出する。」とあるだけの簡素なものである。事前に拝謁の申し出があったのだが、乃木が二日に一度は恒例的に「皇孫殿下に拝謁」していたという記録はない。拝謁の時間も違う。何よりも、ここに描かれているように50分以上の長時間にわたる講述を乃木が試みたということは、鈴木孝の「天皇・運命の誕生」でも、甘露寺受長の『天皇さま』でも、それを裏付ける傍証はないのである。司馬はどういう根拠から、或いはどの文献から、この場面を構成したのだろうか。それともそれはあくまで小説的な想像、虚構なのだろうか。しかし、それはいかにもこうであっただろうかと思わせるに足るリアリティを持っている。
 特に目を引くのは、乃木の国家の将来についての危機感の問題である。日露戦後、忠君思想が崩壊していくのではないかという怯えが乃木にはあった、と司馬は言う。ただの愛国ではいけない。その底に忠君思想がなければならない。しかしそれは抜けてしまったのではないか。これが乃木の怯えであった。
 そのために彼は山鹿素行の政治思想に依拠した。『中朝事実』「神治章」の「それ、天下の本は国家にあり、国家の本は民にあり、民の本は君にあり」という文章の「君」を司馬は「天子」と解釈する。「国家の本は民にあり」というところまでは儒教思想であったが、「民の本は君にあり」というところで素行は「時の政権から忌避された」とした。

 ここで直接に乃木が皇孫たちに講述をしたという『中朝事実』を読んでみることにしよう。それは昭和天皇の少年時代における乃木希典との接触について考える時、その思想的淵源としての原典を探る必要があるからである。
 この書の肝要は、各章の総体が「皇統」という題目の下に統括されていることから明らかなように、万世一系の「皇統」の優位性を論証する所にある。ここで「中朝」とは中国(中華)のことではなく、日本のことを指す。そのことを「中国章」では次のように言う。
《独り本朝は天の正道に中り地の中国を得、南面の位を正しうして北陰の険を背にす。上西下東、前に数洲を擁して河海を利し、後は絶峭に拠りて大洋に望み、毎州悉く運漕の用あり。故に四海の廣きも猶ほ一家の約なるがごとく、萬国の化育は天地の正位を同じうして、竟に長城の労なく、戎狄の膺なし。況や鳥獣の美、林木の材、布縷の巧、金木の工、備へずといふことなし。聖神称美の嘆、豈虚ならんや。》
 これは中朝である日本の位置・地勢・自然に関わっての称賛である。さらに「皇統章」では次のように説く。
《夫れ外朝は姓を易ふること殆ど三十姓にして、戎狄入りて王たる者数世なり。春秋二百四十余年にして臣子その国君を弑する者二十又五なり。況やその先後の乱臣賊子は枚挙すべからず。朝鮮は箕子受命以後姓を易ふること四氏なり。その国を滅して或は郡県と為し、或は高氏滅絶すること凡そ二世、彼の李氏二十八年の間に王を弑すること四たびなり。況やその先後の乱逆は禽獣の相残ふに異ならず。唯り中国は、開闢より人皇に至るまで二百萬歳に垂として、人皇より今日に迄るまで二千三百歳を過ぐ。而して天神の皇統竟に違はず、その間弑逆の乱は指を屈してこれを数ふべからず、況や外国の賊竟に吾が辺藩を窺ふことを得ざるをや。》
 これを素朴にして滑稽なる迄の夜郎自大的な自国称美論と見ることも出来よう。全くグローバルな世界から閉ざれた鎖国時代においてのみ通用し得る、或は通用し得た議論である。つまりは極東の辺陬にある島国であることの自己満足とも言える。しかし、この主張は人間の魂の根に在るものであり、その意味での強さを持っている。
 さて、問題は君主と人民の関係である。「神治章」には「成務帝の五年秋九月、諸国に令して国郡を以て造長を立て、県邑に稲置を置く。百姓居に安んじて天下事なし。」という『日本書紀』(巻一)の言葉を引いて、素行は次のように論じる。
《成務帝始めて国郡を分け封域を定め、造長は国郡を主り、稲置は県邑を司る。宜なる哉百姓安居し天下事なきこと。夫れ天の烝民を生ずる、自ら治むること能はずして、遂にこれが君あり。君萬民を統べて独り理むること能はずして、これを百官に付す。百官の理むるところ、その揆これ萬にして、その繋るところ悉く民に在り。然らば乃ち百官の設は民の為にあらずや。人君の重きことは民の為にあらずや。既に天民の為に己れを立つることを知るときは、民を重んずるを以て先務と為ざることなし。》
 そこに示されているのは決して日本主義とか国体論とか日本精神とかの無条件的かつ盲目的な賛美崇拝ではない。単なる文辞の表面に拘らずに全体を掴めば、ここで素行は「天下の治道」における儒教的原理の普遍性を実質的には承認していると私は思う。つまりこの一見、あまりに姑息な日本特殊論の称揚のようでありながら、その根底にはかえって普遍的な政治の要諦に通ずる論証の道筋を辿ろうとする情念のあることに私は感銘した。
 従って、素行の思想が日本=中朝と見るのは今日から見れば偏狭独善であるが、しかしそれは現人神としての天皇を神代以来戴く特異な国体であるが故に、他の国とは懸絶しているという――すなわち、本居宣長が『直毘霊』で示したような――論理構造によるものではない(田原嗣郎「山鹿素行と士道」)。
 ところが吉田松陰も乃木希典も、素行の『中朝事実』をいわば超・日本主義的に、国粋主義的に、神秘主義的に解釈し把握した。それは端的に言えば、松陰や乃木における陽明学的な体質が与っているところが大きいであろう。
 それでは乃木の訓育が裕仁皇太子に与えた影響はどんなものであっただろうか。これが次の課題である。
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2016年07月13日

『実録』メモ ㊻乃木希典との接触

 無味乾燥な記述の連鎖に見える『昭和天皇実録』の「賜謁」記事群の中で、やはり乃木希典との接触は異彩を放っている。まず回数が異常に多い。近親者または近臣を除いて、迪宮裕仁親王にとって乃木ほど賜謁・接触の機会の多かった人はいなかった。
 また内容的に見て、ほとんど劇的な展開の乏しい迪宮の幼少年期における最大のドラマは、迪宮裕仁と乃木希典との触れ合いの記録であるということなのである。それは司馬遼太郎の小説『殉死』においても一つのハイライトをなす場面であった。
 いささかトリヴィアルに過ぎるかもしれないが、『昭和天皇実録』「第一」における乃木希典の事項をあえて逐一追ってみよう。年代は明治34年の皇孫「誕生」から始まり、明治45年の乃木の殉死に終る、僅かに11年余の期間である。

 最初の賜謁記事は迪宮の誕生から3カ月後である。(明治34年8月6日「午前、陸軍中将乃木希典が参邸伺候する。」)この記事の出処は「乃木希典日記」のみである。乃木は明治34年5月22日に依頼休職となっているから、この参邸は休職中のことである。
 それ以後は長く絶えている。明治37年日露戦争に伴い、最初は留守近衛師団長に任じられ、次いで第三軍司令官に任命される(5月2日)。
 次の賜謁記事は日露戦争終了後である。明治39年2月4日「凱旋軍司令官に賜謁」との標目記事があり、元第四軍司令官の野津道貫、元鴨緑江軍司令官川村景明等とともに沼津御用邸へ参候している。
 そして次の賜謁の時には乃木は既に明治天皇の沙汰によって宮内省御用掛に任じられ、学習院教育に参与することになっていた(同年8月25日)。それは明治40年4月のことで、ここでは皇孫への乃木による指導が有名になっている。
《四日 木曜日 本日より幼稚園課業を御再開になり、この日は例の如く唱歌、積木などをされる。
東宮大夫中山孝麿、東宮侍講三島毅、学習院長乃木希典参殿につき、雍仁親王と共にそれぞれ謁を賜う。乃木より、今日の様に寒い時や雪などが降って手のこごえる時などでも、運動をすればあたたかくなりますが、殿下はいかがでございますかと尋ねられ、ええ運動しますとお答えになる。》
 このエピソードは、足立タカ(鈴木孝)の文章「天皇・運命の誕生」の記述に基づくと思われるが、そこではこれは熱海へ避寒中の元日に大雪が降り、乃木が御機嫌奉伺に来た時のこととして書かれている。ところが迪宮が正月元日に熱海に避寒していて、乃木希典等に賜謁したのは『実録』を見ていく限りでは明治44年のことである。この時日の食い違いの理由はよく分からない。

 明治41年2月27日の記事には「学習院御入学の御治定」「乃木学習院長の皇族教育方針」という標目記事がある。
《二十七日 木曜日(前略)来る四月より学習院御入学のことが御治定となる。親王の御教育については、御父嘉仁親王の先例を参考としながら、東宮職と学習院長乃木希典との間で検討が進められ、初等教育は貴賤男女の別なく必須の学科を学習するものであり、皇族も初等学科において学ぶべきとの判断から、初等学科六年間の御就学と定まった。なお、乃木院長は初等学科主任に命じ皇族の教育方針につき、以下の覚書を作成せしめた。
 一、御健康を第一と心得べきこと。
 二、御宜しからぬ御行状と拝し奉る時は、之を御矯正申上ぐるに御遠慮あるまじきこと。
 三、御成績につきては御斟酌然るべからざること。
 四、御幼少より御勤勉の御習慣をつけ奉るべきこと。
 五、成るべく御質素に御育て申上ぐべきこと。
 六、将来陸海の軍務につかせらるべきにつき、其の御指導に注意すること。》
 そしてすぐ次の3月1日には沼津御用邸を「学習院長乃木希典」が「御機嫌奉伺として参邸」の記事がある。以降、特に学習院長としての乃木の賜謁の機会が増えている。列挙してみる。

・4月2日 乃木希典に賜謁。同月11日 学習院初等科始業式。学習院長乃木希典に賜謁。
・6月1日 露軍戦死者弔魂碑除幕式に参列のため明日旅順へ出発の乃木希典院長に賜謁。
・6月29日 学習院長乃木希典参殿、第一学期成績表の奉呈。
・7月23日、9月6日 乃木希典に賜謁。
・10月30日 学習院女学部運動会。乃木希典の案内。
・明治42年2月1日、同月11日 乃木希典に賜謁。
・5月2日 学習院輔仁会春季大会。乃木希典の挨拶。
・8月9日 森戸の細川侯爵別邸、乃木希典に賜謁。
・12月15日 乃木希典院長より、旅順表忠塔に関する講話を聞く。
・明治43年2月17日 乃木希典に賜謁。乃木は仮教場での学事を拝見。
・3月30日 乃木希典に賜謁。二年級成績の奉呈。
・8月2日 乃木希典に賜謁。
・明治44年1月1日 熱海御用邸での新年拝賀。乃木希典等に賜謁。
・3月26日 乃木希典に賜謁。乃木は、英国皇帝ジョージ五世戴冠式に参列の依仁親王に随行して出張する。
・4月2日 学習院、乃木希典院長より四年へ進級の言上。同7日 乃木希典に賜謁。
・9月5日 伊香保より帰京。帰殿後、乃木希典に賜謁。同21日 乃木希典、親王の乗馬練習を拝見。22日 授業にて、院長乃木希典より、英国戴冠式参列旅行の講話を聞く。10月5日、13日も同じ。
・10月13日 乃木希典院長献上の仏国革命時代歴史画を御覧。同29日 学習院初等学科運動会。四年級の全プログラムに参加。乃木希典の発声による天皇・皇后・皇太子・妃の万歳。迪宮は作文の中で、「終はうんどうくわいの唱歌をうたつて乃木院長のはつ声で一同万歳をとなへました」と記している。
・11月26日 横浜波止場で軍艦薩摩の見学。乃木希典らが随伴。
・12月25日 乃木希典に賜謁。
・明治45年1月19日 乃木希典、仮教場に伺候、賜謁。
・4月1日 乃木希典に賜謁。
2日 学習院、乃木希典より五年級進級の言上。
・5月2日 乗馬練習、乃木希典が参観。
・7月16日 学習院長乃木希典、参殿、賜謁。

 以上は、明治天皇の崩御以前であり、乃木が学習院長としての立場からのものがほとんどである。うち、最後のものは既に乃木が明治天皇の容態を知っていたのかどうか、やや微妙であるが、葉山にいた皇孫たちへの「天皇御違例の報知」があったのは20日であることから、この時はまだ乃木は知らなかったのだろう。しかし14日以来、天皇の「違例」は進んでいたのだから、あるいは察知していた可能性もあるが、この記事自体からは何とも言えない。しかし少なくともその違例が発表されてからは、乃木は「日々参内して天機を候し、御平癒を祈りたてまつり」という状況であった。(『明治天皇紀』「第十二」845ぺージ)
 その後に、あの有名な最後の賜謁の記事がある。
《十日 火曜日(前略)午前十時四十分、学習院長乃木希典参殿、拝謁申し出につき謁を賜う。乃木は『中朝事実』を献上して退出する。》
 この重要場面は、鈴木孝の「天皇・運命の誕生」や甘露寺受長の『天皇さま』(講談社)に詳しく記載されており、司馬遼太郎の小説『殉死』を始めとして多くの文献で紹介されているので、ここでは省く。年歴をなお追って行こう。
 その次の乃木関連は、同月14日の「乃木院長の自刃」という標目記事である。
《十四日 土曜日 昨夜霊轜宮城を発する頃、軍事参議官兼学習院長陸軍大将伯爵乃木希典は、自邸において夫人とともに自刃する。この日午前、皇子御養育掛長丸尾錦作より乃木自刃の旨並びに辞世などをお聞きになり、御落涙になる。》
 その後は、同18日の乃木希典の葬儀、10月12日の三十日祭の追悼式が記載されているが、もちろん迪宮は出席はしていない。さらにその後は、翌年の大正2年5月17日の靖国神社「遊就館に行啓」して、「乃木希典自刃当時着用の軍服等を御覧」とか、9月13日の「故乃木学習院長の一周年祭挙行」(臨席せず)とか、17日の学習院輔仁会編『乃木院長記念写真帖』の献上の記事等が散見される。
 また、その後の記事で、乃木に関連するのは、学習院初等学科卒業後の教育機関についてである。大正3年3月14日に裕仁皇太子は課業を修了するが、その前日の3日に東宮大夫波多野敬直からその方針の「言上」を受けている。すなわち、新たに東宮御学問所の設置をすること、東宮職女官の出仕は今月限りとすること、新たに学友の出仕があること、等である。
 3月16日には「東宮御学問所職員職制」が定められ、4月1日にはその体制が発表される。
《総裁に元帥海軍大将東郷平八郎、副総裁に東宮大夫波多野敬直、幹事に海軍大佐小笠原長生、評議員に学習院長大迫尚敏・理学博士山川健次郎・陸軍少将河合操・海軍少将竹下勇が任命される。》
 なお、4月9日には御用掛も任命されている。
《東京帝国大学文科大学教授白鳥庫吉・内大臣秘書官日高秩父・学習院教授石井国次・同飯島忠夫・東宮侍従土屋正直はそれぞれ東宮御学問所御用掛に任命される。》
 さらに25日には「学習院教課授業嘱託」服部広太郎が博物の担当として、5月23日には「日本中学校校長」杉浦重剛が倫理の担当として任命された(他に馬術担当も任命されている)。
 この御学問所設置は「故学習院長乃木希典の構想によるもの」とされている(『昭和天皇実録』「第二」13ページ)。
 その後の関連記事は、大正3年11月30日に学習院輔仁会編『乃木院長記念録』が献上されたというのが最後になる。
 いずれにせよ、昭和天皇の迪宮としての幼少期だけでなく、その後の少年期の教育輔導方針についての乃木の影響は直接・間接に大きく、長いものがあったことが想像されよう。問題はその実質である。以下、何回かに分けて考えてみたい。
posted by tabatabunsi at 20:09| Comment(0) | 『昭和天皇実録』メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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