2016年08月20日

『実録』メモ (55)象徴の三つの顔

 明仁天皇の生前退位の希望表明メッセージを巡って、種々の論議がある。
 そこで主題となっているのは「象徴」問題である。
 この点、私は前稿で言ったように、これは結局は観念・抽象・擬制の問題であるに過ぎないと思っている。但し、それが日本の天皇制の特徴ではあるのだが、右も左も、こういう信仰領域の問題に興味を集中しがちである、――むしろ、その点にこそ、興味がある。なぜ、日本人は天皇制を揚棄できないのか、天壌無窮・万世一系の天皇制度などという、途方もないフィクションにどこまでも・飽く迄も従属し依存し憑依して止まないのか、事実としてこれまで数千年間の長きに亙って皇室は存続したのか、その系譜の保存のために神武天皇以来の男系の血統(Y染色体)に固執するという、とても正気とは思えないような議論を一応は大学教授という肩書の人間が公の(テレビ討論での)場で高唱して怪しまない(恥じない)のか、…疑問は尽きないのである。
 こういう日本人特有の、精神構造の機構(メカニズム)解明こそ、重要だと私は思っている。
 しかし、依然として風潮は旧態に留まろうとする傾向性を強く帯びているので、やはりその点をもう少し深める必要はあるだろう。そこで現状の「象徴」論議について、補足的にコメントしておきたい。

 日本の天皇制は古来からずっと実は「象徴」天皇制であったという議論がある(山崎正和「」、『中央公論』2016年9月号)。また、8月18日の朝日新聞朝刊の「オピニオン&フォーラム」(インタビュー)欄で、三谷太一郎は、今回の天皇の「お言葉」を、「静的な象徴ではなく、『行動者』としての天皇像を示した」ものと捉えている。論点を整理しておこう。
 第一。天皇は「国旗」のような静的な象徴ではなく、動的な「国民統合の象徴」である、と三谷は言うが、これがそもそも根本的に天皇制度の捉え方として誤っているのである。
 もちろん、それが天皇に対して観念的(擬制的)に与えられた本来の使命・役割・機能ではあった。だが、統合の象徴は天皇が存在するというだけのことであって、個々の天皇が、そういう使命を自覚して行動した(振る舞った)かどうかには全く関係はない。歴代天皇の個人としての、資質とか力量とか魅力とかにはそれは全く無関係である。歴代天皇には英雄的な天皇もいた(自己肥大的に自分をそうだと思いこんだだけのも含めて)だろうし、権謀術数に卓越した帝王もいたし、芸術的な才能に恵まれたミカドもいた。しかし、その反面、半面、或は比率的にはより多く、凡庸・無能の天皇も多かったし、悪逆・残忍・淫蕩・無頼の天皇たちも数多くいた。歴史として、或いは物語として読んでいる限りでは、後の方がより面白いのは事実である。或はこれは人間社会の実相なのか悲劇なのかは分からないが、英雄と悪逆とは往々にして結合しやすく、中庸と凡庸は表裏ということも屡々起こりうることなのである。
 要するに、静的であれ動的であれ、個人としての天皇に「国民統合の象徴」としての役割を求め、その資質と行動とを期待するということは、永世的にはおよそ不可能事に属するのは自明と言ってよい。例えば、次の次の次の、その次の天皇が、象徴どころの議論の範囲には収まり切らない異常人だったらどうするのか。歴史的には天皇家とそして藤原家とを巻き込んだ権力闘争の結果、廃嫡されたり流罪されたり暗殺されたりした天皇も、決して稀少ではない。しかしそれでも、天皇という存在、制度は維持されたのである。これは日本人という種属が何かしらこういう奇妙な・特異な・権力でもあり権威でもある・或は権力もなく権威もないが唯空気のようにそこに在るという、そういう存在をトップ(錦旗)に必要としたという事実の反映なのであろう。
 第二。三谷はまた、明仁天皇のこの表明は、天皇と雖も「自由な意思と責任の主体である、という自覚」に基づき、その意味で「天皇ご自身の人間的尊厳の表明」であると言う。それは何を意味するか。
 歴代天皇は、古代的な帝王の場合でも王朝の内裏生活をしていた天皇の場合でも、武家支配の時代の篭居していた時代でも、それぞれ自由な人間として行為していた。専制支配者もいたし、后妃を数多く抱え皇子女を多数生んで国家財政を危殆に陥れた天皇もいた。総ては自由な人間としての行為だった。これを限定したのは、まさに戦後の象徴天皇制が始まりだった。現人神でもなく、かといって前近代のような后妃・側室を多数擁して憚らない存在でもなく、およそ非人間的なことはこの上もないという存在(そもそもナマミの人間が象徴などになれる筈がない)として閉じ込められざるを得なかった。いつかその重圧に堪ええなくなり、人間としての率直な自由欲求の表明が顕れることは必然だった。
 これを戦後の「人間宣言」と同一視するということの滑稽さは別として(というのは、あれは敗戦の結果の国体護持のための窮余の策でもあり、ある意味では天皇として元来、現人神などという信仰は持っていなかったことの帰趨でもあったから、これは特別に人間であることの表明ではなかったので、単に天皇制維持のための方便に過ぎなかったのである)、これが明仁天皇の衷心からの本心の表明であることは疑えない。要するに、天皇にも自由を与えよ、という主張であって、これはいずれは・いつかは噴出せざるを得ないものであった。例えば、今の皇太子が天皇になった時、雅子妃は皇后になる。私はそうなったら、彼女は見違えるほどに回復し、見事な皇后としての役割を果たすだろうと思う(期待する)が、もしそうならなかったとして、それではどうなるのか。どうにもならない。そのままであり、そのままでいいのである。それが人間の自由ということの本質的で根本的な意味なのである。
 第三。問題は、「そもそも、なぜ天皇制が必要なのかという議論」にある。
 三谷は、福沢諭吉の『帝室論』を引いて、こう述べる。
《福沢は、憲法実施後の国会で政治的対立が激化することを見越して、そういう権力闘争の外に天皇が存在することが、対立への『緩和力』となり、国民統合にとって有益だと考えた。この『帝室論』は、戦後、象徴天皇制が作られていく上で大きな影響力がありました。》
 この福沢の視点は、今も有効だと三谷は考えているらしい。権力闘争だけでは安定した政治秩序は作れない、それが日本の現状である、というのが三谷の観察であるが、それは誤っている。
 天皇の存在が日本政治の安定に寄与した、貢献した、或はその帰趨を支配した、ということは実はほとんどない、なかったのである。
 私に言わせれば、どんな混乱、無秩序、動揺があったとしても、一度は日本人は天皇という錦旗の存在を除外してギリギリの選択をしなければならないのではないか。そうでなければ、日本の革命などはあり得ないのではないかと思うのだが、これは所詮は、国民総体の選択によるものだから、私は終局的にはどちらでもいいのだと思っている。

 今、『天皇の歴史』シリーズを読んでいる。その01『神話から歴史へ』、02『聖武天皇と仏都平城京』は古代から奈良・平安時代の天皇の実態を描いていて面白い。それは天皇が単なる抽象的・神秘的・理想的存在ではなく、具体的・人間的・現実的な存在であって、そこには人間というものがあらゆる美徳と悪徳とを所有している存在であり、それ故にこそ醜くかつ嫌悪すべきものでもあると同時にまた美しくも感動的でもある存在であるということなのである。
 ここでは、天智・天武の両系統の角逐も興味深いし、その後の持統・元明・元正・孝謙の女帝の凄味も面白く、聖武から桓武・平城・嵯峨への経緯も人間の赤裸々の性(さが)を露呈していて共感がある。
 ところで、譲位の問題である。02の本の305pには、次のような要約がある。
《太上天皇の権能は、女性太上天皇の「後見」の終焉、平城太上天皇の敗北、嵯峨太上天皇の隠棲という長いプロセスを経て、ようやく確立したのである。これ以降、天皇が譲位するのは珍しいことではなくなり、太上天皇として死去することが多くなっていった。「桓武」「仁明」「文徳」といった漢風諡号よりも、「嵯峨」「淳和」「清和」といった院号で呼ばれる天皇が多くなるのは、このような理由に基づくものである。》
 これは昔の天皇の譲位は事実上、自由なものであったことを示している。だとすれば、今の天皇がどうして自由に譲位・退位をできないのか。前近代の神聖な天皇には奔放な自由もあった。近代で現人神とされても人間的には自由だった。明治天皇も大正天皇も、そして昭和天皇も、帝王という自覚でその生涯を送ったのであって、象徴という曖昧模糊とした・中性的なようでいて実は非人間的な箍を嵌められた存在ではなかった。明仁天皇はそれを自覚化して、象徴天皇というものの可能性の幅を自分の身に当て嵌めて験証したのだった。

 さてそれでは、象徴という存在にはどんな実際の姿があっただろうか。
『昭和天皇実録』「第二」の413ページに、こういう記述がある。大正7年10月の記事である。
《二十日 日曜日 午前十一時二十分御出門、霞関離宮に行啓され、海軍大臣加藤友三郎以下海軍省関係者並びに第一艦隊司令長官山下源太郎以下同艦隊附上長官以上及び幕僚尉官、海軍軍令部長島村速雄・同次長竹下勇以下海軍軍令部関係者に謁を賜い、一同に酒饌を下賜される。
午後一時霞関離宮を御出門、新宿御苑にお成りになり、ゴルフをされる。ついで、動物園にお預けのサルやワシ等を御巡覧になる。》
 迪宮裕仁が皇太子になってからの事跡は、目立って変化していて、特に公的任務の量が明らかに拡大している。この4日前の16日にも、「原総理以下新内閣閣僚に賜謁」したり、参謀本部に出務したり、第一艦隊及び海軍軍令部幕僚等に酒饌を下賜したりしている。しかし明治天皇の場合には見られない行動がその間に挟まっている。酒饌下賜の直後に、彼はゴルフをし、その後動物園のサル・ワシを巡覧している。一体、それらのどれに裕仁皇太子の本領・本質・本性は現れているのだろうか。
 一人の人間としてみれば、その行実は、公務と、そして憂さ晴らしの遊興・趣味と、稼ぎのための仕事とに分けられるだろう。皇太子としての裕仁は公務を着実にこなしつつ、その余暇にはゴルフに興じて憂さ(抑圧)を晴らし、サル・ワシを見て慰めている(但し、彼には稼ぎの必要も義務もない。それは特権でもあるが、またある観点から見ればこれほど鬱屈した、非人間的な立場もないとも言えよう)。どれが彼の真の顔か?――そう問うのはいかにも愚かしい。明治天皇ならば遊興・余暇よりも政務の方に集中しただろうし、大正天皇ならば人目を気にせずに余暇・慰安・休養に専念しただろう。昭和天皇は与えられた天皇の職務に対してはすべてに忠実・誠実に対応した。いわばその対応はあまりにも常人離れして、受身的であり、私はそこに、何か人間離れした、いわばロボット的な・サイボーグ的・鉄人的な薄気味悪さをも感じるのである。

 結局、現人神であれ象徴であれ、それは天皇個人の資質・能力・カリスマによるものではない。ただそれを受容する側、拝跪し帰依する側の一致した共同的な心情の凝結体の強さ乃至純粋さによってのみ維持されるのである。古代以来の天皇の中(神話的天皇は別として)で、その人自身に現人神的、或は象徴的なカリスマを所有していたということはない。逆に、どんなに暴虐な、または淫蕩な天皇であっても、或は無能無為で凡庸な人でも、天皇であるということだけである種の神聖性は保持されていた。

 今回の明仁天皇の希望表明をそのまま受け止めれば、要するに、生前における自由な譲位・退位を実現してほしいということに尽きるだろう。
 例えば、第52代の嵯峨天皇より、天皇譲位というのはいわば平常化していたのだ。しかも太上天皇は権力を持たないという伝統がそこで確立された。

 私は率直に提言する。
 天皇・皇族と雖も、もちろん人間である。それを現人神とか象徴とか、勝手な枠に当てはめたのは近代以後の迷蒙に属する。皇室制度というのを私は根本的には支持しないのだが、しかし日本人の総意としてその存続を求めるのであれば、それに反対する理由は何一つない。だから、皇室の人々をもっと自由にしてあげるべきであると思うのである。
 そのためには、今の皇居は相応しくないのではないか。
 京都に戻り、ひっそりと、しかし自由に生き、生活・人生をエンジョイしつつ、生涯を送ってもらいたい。そう思うのである。
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2016年08月17日

『実録』メモ (54)時代の終焉

 天皇の生前退位の意向表明のビデオメッセージが発表された(8月8日)かと思うと、14日には「国民的アイドルグループ」であるSMAPの解散の報道があった。
 ちょうど読みつつある『新古今集』(新潮古典集成)の「末の露 本のしづくや 世の中の おくれ先立つ ためしなるらむ」(僧正遍昭)の歌の通りで、宇宙の成住壊空から生物の死滅まで、何事にも終焉があるものだという法理をそのままに現わした事象であって、そのこと自体は元来から予想・予定された問題であって、天皇の退位ということもSMAPの解散も、今さらに共にこれを「衝撃」と捉えて騒ぐマスコミの感覚の方こそ、私はむしろ奇異に感じられた。

 天皇のメッセージのキーワードは、唯一つ、「社会の高齢化」ということに尽きるのであって、そこには「象徴」の問題などは存在しない。そもそも人間天皇が果たし得る筈がない「象徴」という役割はあくまで擬制的なものであり、明治憲法における「現人神」理念と同じようにそれは論理の対象ではなく、信仰の範疇に属する概念である。
 結局、現人神であれ象徴であれ、それは天皇個人の資質・能力・カリスマによるものではない。ただそれを受容する側、拝跪し帰依する側の一致した共同的な心情の凝結体の強さ乃至純粋さによってのみ維持されるのである。古代以来の天皇の中(神話的天皇は別として)で、その人自身に現人神的、或は象徴的なカリスマを所有していたということはない。逆に、どんなに暴虐な、または淫蕩な天皇であっても、或は無能無為で凡庸な人でも、天皇であるということだけである種の神聖性は保持されていた。
 天皇という存在にとって一番の問題は寿命である。神聖性の維持のためには寿命が適当に短いことが必要不可欠である。
 この点でのベスト5を挙げると、@昭和天皇(第124代)87歳8か月、A後水尾天皇(第108代)84歳2か月、B陽成天皇(第57代)80歳9か月、C靈元天皇(第112代)78歳2か月、D白河天皇(第72代)76歳、である。
 このうち、ABCDはいずれも在位期間はもっと短い。早くに譲位し、上皇なり法皇なりの自由な立場でしかも権力を維持した、だから務めを果たせたとも言える。現天皇は82歳8か月で、実は上の順位では第三番目にある。そしてこれからはますます高齢化は必至なのだから、早期譲位(退位)は当然のことになってくるのである。この道理を平成の明仁天皇は訴えたまでであろう。

 明治45年7月29日、午後10時43分、明治天皇が崩御した。その続きを『昭和天皇実録』から引く。(「第一」588ページ)
《急報により、午後十一時十二分雍仁親王・宜仁親王と共に御出門、御参内になり、御尊骸に御拝礼になる。皇后より御尊顔を御記憶になるべき旨のお言葉あり。ついで皇太子・同妃に御拝顔、各皇族に御対顔の上御退出、翌三十日午前零時二十八分御帰殿になり、侍臣からの弔詞をお受けになる。天皇の崩御は、喪を秘すこと二時間、三十日午前零時四十三分として公表される。
三十日 火曜日 天皇崩御につき、御父嘉仁親王が践祚、「大正」と改元される。裕仁親王は皇太子となる。なお、天皇は当分の間、青山離宮(従前の東宮御所)から宮城に出御されることとなる。》
 簡潔で、事実のみの記載である。しかもどこかの博覧会等の見学の記事に見られる無意味な詳細さと比べて、異常なほどに短い。
 同じ崩御のことを『明治天皇紀』はこう伝えている。
《三十日 御病終に癒えさせられず、午前零時四十三分心臓麻痺に因り崩御したまふ、宝算実に六十一歳なり、乃ち宮内大臣・内閣総理大臣連署して之れを告示す、一時内大臣剣璽及び御璽・国璽を奉じて正殿に至る、是に於て剣璽渡御の儀行はれ、新帝詔書を発して元を大正と改めたまふ、
天皇在位四十六年、時に違和を伝ふることなきにあらざるも、皆一時の事に属す、然れども夫の日露戦役中始て糖尿病を患ひ、尋いで慢性腎臓炎を併発したまひ、爾来往々宸意を後事に留めたまひし事あり、又本年二月二十五日夜半聖躬俄かに不予、侍医西郷吉義の診治に依りて癒えたまひし事ありと雖も、外間素より是れ等の事情を知らず、至尊不諱の御事の如き、一般国民の夢寐にだも想到せざる所なり、然るに是の月二十日突如として不予の報あり、未だ旬日ならずして大漸を伝ふ、上下憂惧殆ど為す所を知らず、只管玉体の平安を神仏に祈願す、殊に輩𧏚の地に在りては、演劇以下諸種の興行大半中止し、高歌会飲蹤を巷間に絶ち、老幼男女期せずして宮城正門外に麇至し、甲去れば乙来り、乙行けば丙至り、朝より晩、晩より朝に及びて人影を絶たず、日を経て益々増加し、二十七、八日頃に至りては無慮幾万、新陳交代、皆皇居を望みて泣祷す、二十九日夜人特に多く、天漸く明くるに及び愁然として四散す、既にして崩御の事伝はるや、国民驚駭措く所を知らず、朝野傷悼天日為に闇きを覚ゆ》

 この明治の終焉の時の国民の感慨を後世の私たちは完全には想像しえないのは当然である(それは時代状況が根本から異なっているのだから)。乃木希典の殉死、夏目漱石や森鷗外の反応、或は「降る雪や明治は遠くなりにけり」(中村草田男)の感慨から、私たちは遥かに遠く隔たって来た。別言すれば、こうした形の明確で断言的なメッセージを発するのには私たちは余りにも遠慮がちであり、躊躇しがちであり、逡巡したり、跼蹐したり、右往左往したりしているのだった。草田男の同じ句集『長子』に所収の句群、たとえば「蟾蜍長子家去る由もなし」「冬の水一枝の影も欺かず」「瑰や今も沖には未来あり」などにも、くっきりした青春の刻印を感じるし、いずれも曖昧模糊としたところの全く無い明確歴然とした句である。それにたいして、私たちの時代の様相はもっと曖昧で、とりとめもなく、鵺的であった。しかし、今思うと、昭和という時代は明治に比してははるかに影が薄いとはいえ、まだ明晰な英雄時代の名残の時、英雄讃歌の残照の最後の時代でもあったのだろう。

 こんな迂遠な感想を記したのは、今回、突然にSMAPの解散報道があり、それ自体には私は何の感慨も衝撃もないのだが、世間があまりに騒ぎすぎるのに吃驚して、その理由が何だろうかと考えたのだった。
『朝日新聞』8.15朝刊の記事によると、グループとしてのSMAPの魅力の理由は時代状況によるところが大きいようだ。すなわち、彼らの人気が高まった1990年代というのは、バブル崩壊期であった。その時の国民の中の停滞感・分裂感・寂弱感を彼らのグループが見事に埋めたことにあるようだ。
 とすると、これは昭和から平成への移行期にも合致していたものなのかも知れない、とふと思った。
 というのも、SMAPの結成は1988年であり、それはちょうど昭和天皇の死没の前年だったからである。そういう、緊張から弛緩の時代への転換、これが明治から大正であり、また昭和から平成だったのではないかという気がしたのである。
 そして記事には、「高度成長期に求められた大スターと違い、SMAPは停滞感がある時代を生きる上でモデルになった。ナンバーワンでなくていい、という『世界に一つだけの花』はその象徴だ」(中森明夫)という分析が書かれている。なるほど、そうなのかも知れない。
 まさに焼け跡から高度成長期に向かって行った私の幼少年期、そして青春期には、圧倒的な大スターたちがいた。それを日本人に限って(もちろん個人的な好みを憚らずに)言えば、力道山、美空ひばり、川上哲治、長谷川一夫、原節子、田中角栄、長嶋茂雄、ということになろうか。(石原裕次郎にも吉永小百合にも高倉健にも、私は熱狂したことがないので省いた。)それはこの時代が充実・充溢の時代だったということである。

 今、YOUTUBEで、「世界に一つだけの花」を改めて聞いてみた。
 みんな下手だなあ、というのが最初の感想だった。だけども、それでいいのだろう。ヘタなりに、或はヘタだから、いいのだろう。つまり、その辺にどこにでもいる、普通の、平凡な人達の代表であるためには、殊更に上手過ぎてはいけないのであって、その点、SMAPは、平成時代のヒーローになり得たのだろう。私には理解できない感性であるが、しかし世代ごとに違うことがあるのは仕方がないのだから、仕方がない。
 平成の時代というのは、どういう時代か。
 それは、時の天皇のイメージが、率直に表明しているものである。明治は剛直、大正は柔弱(これは否定的な意味ではなく、むしろ肯定的な意味で言っている)、昭和は敗北しつつ復興し、下降の極点から上昇への反転を試みるという意味では、中庸だが同時に狡猾でもあって、強かな二面性を持っている。その点では平成は誠実で、平明で、民主主義者的で、親しみが持てるし、何よりもその奥さんがいい。美智子皇后の魅力によって、平成の天皇はかなりの得点をしているところがあるのではないか。
 美智子皇后というのは強かに、ある意味ではやりきれないほどに賢明・聡明である。その姿があまりにも良妻賢母の模範であり、かつ能力もあり美しくもあるという意味での才媛であるということなのである。

 さて、本題の天皇論の範囲に戻ろう。
 天皇家・皇室の歴史を見ると、これは途方もないものである。そこでは何でもありの歴史だった。およそ世間の悪徳と言われるものの中で、天皇・皇室には欠けているものは一つもない。残虐、無慙、無恥、淫蕩、悪逆、…およそこの人間世界の中で今まで行われてきたことで、ここで行われなかったことはないだろう。それだけ人間的であったとも言うことは勿論できる(古代キリスト教史を見ても同じであるが)。
 だからして、私の言いたいことは、簡明に、次の一点に尽きる。
 天皇家は何でも自由自在に、闊達に、奔放に、発言し行動してもらいたいものである。ということ。
 何故なら、日本人は天皇・皇室制度という、他の世界にはない独自の体制を考案した。
 これは全く、論理にも道理にも合わないもので、ただ極東の孤絶世界の中でこそ成立し得た倫理・法制であった。しかしまた、その反面では、あらゆる美徳を集めている存在でもあるのだ。優美、善良、有能。利善美、或は真善美。これはすべてをバキュームカー的に善悪も構わずに吸収してやまない機構であって、そこでは勝敗原理がすべてに優先し、支配する。勝てば官軍負ければ賊軍とか、錦旗を持てばそれで良しとか、勢いある所に求心するとか、要するにその基本原理は現政権こそ正義であるという論理(心情)なのである。
 私は言いたい。
 これ以外に、日本の根本原理はないのではないか、と。
 それは神武以来、卑弥呼以来の日本史の全過程を考察してみれば明らかであると思うのだが、それはまたそれでややこしい問題群を多く孕んでいるようなので、今回は触れないでおこう。
 全く曖昧模糊とした状況で、終わることにする。
 時代の終焉というのは荘厳な落日的な光景なのである。
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2016年08月14日

『実録』メモ (53)英雄と聖者

『実録』メモ (53) 英雄と聖者――明治対昭和(その五)

 前回、政治指導者の資質について、短い考察をした。
 その時、気分としては、明治天皇は昭和天皇とは比較にならないくらいの英雄型であり、それに対すると昭和天皇は実直一辺倒の百姓型ではないかという先入観を私は持っていた。だが、再考してみると、昭和天皇もまた、一種の英雄には違いないという気持に襲われた。

 確かに明治は日清・日露に勝ち、坂の上の雲を目指して限りなく登って行った希望と悲哀との時代だった。そして昭和は満州事変・日華事変の泥沼から抜け出せないまま、破局的な日米戦争へ突入するという絶望と愉楽の時代だった。
 結果的には誰しもが予想し得ないような大勝利を得た明治。極東の、侮蔑された亜細亜の、猿のような、黄色い人種の、倭という呼称にふさわしい小柄で卑下した国が、かの尊大なる、英雄的で倨傲な、専制独裁の露西亜大帝国を相手にして、乾坤一擲、空前絶後の、主観的には間違いなく祖国防衛戦争を戦って勝利したのである。これは全亜細亜の称賛の的であり、誇りであり、金字塔であった。そしてそこには想定外の、九死に一生を得たかと思わせるような必死の気概があり、その意味ではそれは決して明るくはなく、むしろ誰しもが一度は国家滅亡を想ったかもしれないという点で、その底には深い悲哀の感情が込められていたように思われる。
 これに対して、完膚なきまでの敗滅を現出した昭和は、確かにペリーによる開国の強制以後の、すべての苦渋と不満と屈辱とを晴らすべき明治百年戦争を戦ったのだった。その意味でそれは、絶望の中でも一抹の明るさに満ちていた。でなければいかに一億総白痴化したとはいえ、天皇から庶民まで最終的には一致して対米戦争へ一致するということがある筈がなかった。端的にはその例は、高村光太郎と斎藤茂吉を見ればいいだろう。小林秀雄もそれに追随した。若き日の吉本隆明も井上光晴も三島由紀夫も、少年の大江健三郎も、皆等しくその時期には(度合いはそれぞれに異なるとはいえ)皇国至上主義者だったのである。
 登り坂の中での日陰の憂鬱さと、下り坂の中での一瞬の陽光と…。
 そのどちらの方が幸せか、心地よいか、快楽的か、というのは各人の趣味によるだろう。
 しかし、ある意味では、それは上昇と下降との、プラスとマイナスとのベクトルの違いだけであり、エネルギー量の面では同じなのである。その点で、明治と昭和はいわば同一次元に在ると言っていい。

『昭和天皇実録』「第一」明治45年4月7日の項に、こういう記事がある。
《七日 日曜日 午後一時、雍仁親王と共に御出門、東宮御所において皇太子・同妃に御拝顔後、皇太子と御同列にて高輪御殿内の朝香宮邸にお成りになる。鳩彦王・同妃允子内親王と御対顔、御談話になり、お揃いにて庭内を御散策になる。途中、大石良雄以下赤穂浪士自刃の旧跡等を御覧になり、四時三十五分御出門、御帰還になる。》
 この地は、江戸時代、大石良雄らの切腹の地として知られる肥後細川家の下屋敷跡であり、大正時代には皇太子であった昭和天皇が一時期東宮御所としていたこともあるところである。しかし、ここには『実録』のいつもの例のように、皇孫・迪宮裕仁の特段の感想は記されていない。
 恐らく彼は、ごく標準的な感想を抱いたのであったろう。それは彼の優秀だが、どこか畸形的な、そう言って悪ければ、ロボット・サイボーグ的な、つまりは普通の人間では考えられないような人間類型ではなかったかと思われるのである。彼は無類の好人物であったことは間違いない。無垢の、イノセントな、帝王らしい人格であったとも言えるのであろう。しかしこれほど何に直面しても、いささかも動揺も逡巡もしない、というのはそれはもう、何か人間を超えた存在であるとしか言いようがない。

 山崎正和が御進講の体験を語っていて、昭和天皇は、大変な頭のいい人だという印象を言っていた(高坂正堯との対談「ロイヤル・イノセンス」、『文藝春秋』平成元年3月号所収)。講義を聞くと、すぐに三つの質問をする、というのだ。しかしこれは何が問題であれ、それをパターンとして捉えるための契機ではないのか。三題噺、とか。つまりそれは分類・整理を得意とする秀才型で、要領を掴むのは上手い。瞬時にとは言わないまでも、即座に反応できる、ということは確かに昭和天皇の優秀さを示すものではあるに違いない。だけれども、それはツマラナイことではなかろうか。少なくとも、感激的なことではない。何に直面しても、誰の話を聞いても、いつも、同じように、三つの要点を会得し、質問するというのはある意味では退屈なことではあるまいか。

『明治天皇紀』の明治元年11月5日「赤穂義士の追賞」の項には、こうある(「第一」888ページ)。
《権弁事山中献を高輪泉岳寺に遣はし、大石良雄等の墓を弔せしめ、金幣を賜ふ、勅に曰く、
 汝良雄等固執主従之儀復仇死於法百世之下使人感奮興起朕深嘉賞焉今幸東京因遣使権弁事藤原献弔汝等之墓且賜金幣 宣》
 これもどこまで明治天皇自身の発意なのかはよく分からない。しかし、彼の時代感覚には、赤穂義士を追賞する動機はより強かっただろうと思われる。ところが昭和天皇の場合は、時代はずっと離れていた、というより、彼は本性的に、そういういわば陽明学徒的な傾斜性というのは乏しかったのではあるまいか。『実録』のどのページを見ても、それはこの史料の根本性格が歴史的ではなくて、日誌的であるからでもあるが、それよりも昭和天皇の資質・性格が、そういう極端性に欠けている、或いは乏しいのである。(これは称賛というより、むしろ欠点として私は数えたいと思っている。)

 そこから言うと、明治天皇は英雄型、大正天皇は文人型、というのに対して、昭和天皇は常民型とでもいうべき存在類型に入るのではなかろうか。というのが、今の私の脳裏に浮かんだ直観である。
 このコラムの全体を通して、私はこの命題を追求したいと思っている。その果てに私は、その存在を聖者型と言ってもいいのではないかと考えているのだが、これは短兵急に結論の出せる問題ではないので、ひとまずはここで筆を措くことにしよう。
posted by tabatabunsi at 00:59| Comment(0) | 『昭和天皇実録』メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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