2016年09月30日

『実録』メモ (67)「朕が世に至りて」

 今日、『昭和天皇実録』「第四」の617ページまで読み進んだ。
 すなわち、大正15年12月25日午前1時25分、大正天皇の崩御により、摂政裕仁皇太子が践祚し、昭和と改元するところまでである。
 実を言うと、この年の記事は、12月の大正天皇重態の状況になるまで、読み物としては全く退屈平板である。日々、平穏無事で単調、夫婦でゴルフやテニスの記事が目立つ。12月に入ってようやく大正天皇終焉の年の緊張感が醸し出される。
 践祚につき、賢所の儀があり、「御告文」が奏される。その一節に「朕寡弱き躬にし有れば斯くの如き御世累ね弥張りに張り給ひし大功績の朕が世に至りて失墜損傷はむかと怖じ恐る」(平仮名・書下し文に改める)とあるのが胸に響く。また朝見の儀での「勅語」では「以て太統を嗣げり朕の寡薄なる唯競業として負荷の重きに任へざらんことを之れ懼る」とも言われている。絶頂から奈落へ。その治世の急転を暗示するかのようである。

 昭和天皇の一生は、明治34年(1901)4月29日の生誕から昭和64年(1989)1月7日の崩御まで、87年8カ月余に及ぶ。それはおよそ三つの時期に大別される。
 生誕から大正15年(1927)12月の践祚まではこれを「帝王学の時代」と呼ぶことが出来る。即位から敗戦の昭和20年(1945)までを「大元帥の時代」と呼ぶとすると、昭和21年の「人間宣言」から崩御までを「象徴天皇の時代」と呼ぶのが適切である。

 私のこの『実録』メモは、ともかく読みながら思いついたこと、興味を引いたことを順不同に取り上げてきた。これからしばらくは、読書としては昭和2年以降の分に進むが、メモはまだこの「帝王学の時代」にとどまって考えていきたい。この萌芽の時代にこそ天皇家、そして昭和史、さらに大東亜戦争の敗北に至る日本の本質らしきものが見えてくるように思われるからである。
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2016年09月28日

『実録』メモ (66)君主としての責任

 前項で私はこう書いた。
《確かにそういう側面もある。そのくらいに天皇の孤立感・重圧感・焦燥感は強く深かっただろう。こんな重荷を生涯にわたって背負わねばならなかったその人生の過酷さには心から同情する。しかし彼の人の場合、それは半ば――というか、ほとんど慣性的なまでに――習性化された振舞になっていたのではなかったか。だから、彼はその重圧によって内面的な自己崩壊に陥りもしなかったし、また君主としての絶対的な責任から発する決断にも踏み切ることがなかった。》
 これは決して昭和天皇(迪宮裕仁)に対する個人的・感情的な誹謗ではない。
 しかし、戦前の天皇は元首であり・大元帥であり、まさに君主(立憲であるとしても)であった。であるならば、どんな贅沢をしても仕方がないし、どんなに後宮に多数の后妃を擁してもやむを得ないのだろうと思ってはいる。だが、その反面には、いざという時、貴方は国民全体の興廃を一身に担い、背負っている義務と責任とがある筈だ。その意味では貴方は戦争を拒否せず、結局は受け入れた。その結果、未曽有の敗戦・亡国となったからには、貴方は一身を無にし、犠牲にすべきであったろう。
 もちろん私は知っている。そういう、「君主としての絶対的な責任から発する決断にも踏み切ることがなかった」というのは、貴方だけではない、おそらく百代以上にも及ぶ歴代天皇の大多数はそうだったのであることを。
 天皇家・皇室というのは、古代大王であった時代は実力・武力を伴った権力者でもあった。しかしいつからか、何故か(その究極は私にも勿論よく分からない。その究明が私の天皇論の発想の原点である)は別として、特に王朝時代以来の天皇家は実質的な時の権力者との関わりにおいて、自家を維持・保全することを最優先課題としてきたのが日本史の実相である。
『天皇の歴史05 天皇と天下人』の中で(15p)、織豊期の正親町天皇について、常に「京都支配の実権を掌握した者へすぐさますり寄りそれを取り込もうとする」ために、天皇・禁裏側が「その安穏を確保するためにとった素早い対応」ぶりが描かれている。
 この自家保全第一に向かっての素早い対応と時々の実質的権力者への臆面もない摺りよりこそは日本天皇家の本質・体質であり、それは非難や批判を越えて、ある意味では見事な処世であると評価することもできよう。正親町天皇は、その後も権力者信長と探り合いつつ行動する(87p)。…
 この姿に、大東亜戦争の敗戦後、GHQのマッカーサーに対して、見事な対応ぶりを演じた昭和天皇の姿は重なってくる印象が強い。歴史は繰り返すものであり、それは肯定し得るが、それなら何故、もっと早くに時勢洞察の目を持ち、かつそれへ向かって果敢に決断し得なかったのかという、これはもう今となっては無意味な嘆きではあるが、やはりそれを言わざるを得ないのである。それが君主としての責任ではないのか。
 それにしても裕仁皇太子が欧州外遊を終え、帰国して摂政になり、結婚する前後の行動には不審・不信の念を覚えざるを得ないような「常態からの逸脱」がある。側近や皇太子妃を交えてのゴルフ・テニス・その他の耽溺ぶりというのは、目に余る感じを否めない。当時、関東大震災が起こった。それで結婚を延期したものの、結婚後の日常を見ると、およそ国民の惨状を痛感しているとは思えないような能天気な振舞が多い。これが大正12年から13年までの震災から結婚までの一年の『実録』を読んでいての率直な感想なのである。(「第三」後半から「第四」前半まで)
 いやこれは少し先走りかも知れない。まだ『実録』は天皇即位の前の段階なのに、彼に君主としての責任を問うというのは。だが、栴檀は双葉より。その人間形成の最初期、都城の時に、既にすべての胚珠は捲かれていたのだから、この判断は必ずしも早急とは言えないのである。
 ともかく、実地にその行跡を負ってみよう。
 関東大震災では摂政である裕仁皇太子は重大な衝撃を受けたと思われる。しかしそれは彼にとっては、日常の背景の上での変動であり悲惨であって、要するにそれを内面化する想像力には彼は恵まれてはいなかった。それが彼の生来の幸運な資質であったかも知れぬ。そう思える。
 大震災の翌年(大正13年)、結婚の礼(1月26日)の後の彼のテニス、ゴルフ、ホッケーに興じたという記事を辿ってみる。ちなみに言えば、彼はその年初めの歌御会始で、「あらたまの年を迎へていやますは民をあはれむ心なりけり」という仁慈の心を表わした歌を詠んでもいる。
 2月14日、18日、20日、3月2日、16日、30日、4月1日、6日、20日、27日、5月4日、11日、16日、25日、6月1日、22日、29日、7月13日、20日、27日、8月6日、7日、8日、9日、10日、11日、13日、16日、17日、18日、19日、21日、23日、25日、28日、29日、…といった具合である。
 これは異常に多いというほどのことではないかもしれない。しかし帝王というのは、成婚してもハネムーンを満喫するのではなく、表面的には厳粛な国民への対応が必要だろうが、現実的には彼はその後一年甘い新婚生活に酔いしれていたように思われてならない。
 彼の錯覚はどこにあったかというと、それは彼が君主というものを立憲君主制的なもの、英国的な王室の在り方と混同したところにある。しかし維新以来、明治憲法以来の君主の建前はあくまで絶対的なものであった。本来、彼はそういう絶対主義的天皇の宿命を負わなばならぬ。負うべきであった。彼はあくまで憲法上は、最高統率者、統帥権者、大元帥であることを弁えるべきだった。そこにおける統治というのは最終的には決断と結果責任とを負い、是非善悪の如何ではなく、禍悪はすべて君主の不徳に帰するという覚悟が必要だったのである。
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2016年09月27日

『実録』メモ (65)常態からの逸脱…

 前回、澤村修治『天皇のリゾート』の一節を引用した。
 その中に、こういう箇所がある。
《天皇は二七歳とまだ若く、疲労とは無縁であった。それにしても、御用邸に入ると水泳、ゴルフ、乗馬、そして磯や山林での生物採集といった「趣味」にいきなり耽りだすというのは、どこか常態からの逸脱があるのではないか。》
 私も同じように感ずる。だが、この「常態からの逸脱」というのはやや誤解を招きやすい表現である。澤村はその原因を昭和天皇の重荷に帰して、御用邸はそれからの「逃避の場」「しばしの安息所」とみている。
 確かにそういう側面もある。そのくらいに天皇の孤立感・重圧感・焦燥感は強く深かっただろう。こんな重荷を生涯にわたって背負わねばならなかったその人生の過酷さには心から同情する。しかし彼の人の場合、それは半ば――というか、ほとんど慣性的なまでに――習性化された振舞になっていたのではなかったか。だから、彼はその重圧によって内面的な自己崩壊に陥りもしなかったし、また君主としての絶対的な責任から発する決断にも踏み切ることがなかった。
 そこに私は彼の幼少期から、少年期、青年期への帝王教育というものに根本的な疑義を抱かざるを得ないのである。
 例えば、彼の大正15年1月のこんな一日の行実の記録がある。
《五日 火曜日 新年宴会につき、午前十一時十分御出門、摂政の御資格にて御参内になる。正殿において伯子男爵並びに有位華族に謁を賜い、ついで牡丹ノ間において大勲位以下に賜謁、各国大公使へは御握手・御言葉を賜い、豊明殿に御臨場になる。令旨を賜い、内閣総理大臣・外国主席大使の奉答の後、一同に謁を賜う。午後零時四十五分御退出、御帰還になる。》
 すべて判で押したような、定型の無限の繰り返し、それが彼の幼時から終焉までの全人生の営為のすべてであった。幼年時からの躾け=仕付けは見事にいわば自律訓練として「常態からの逸脱」と感じさせるような人格を作り上げ磨き上げてしまったのである。
posted by tabatabunsi at 19:47| Comment(0) | 『昭和天皇実録』メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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