2016年10月30日

『実録』メモ (89)生まれながらの帝王

 朝日新聞(28日朝刊)の記事「三笠宮さまをしのぶ」(皇室担当特別嘱託・岩井克己)を読んだ。見出しには「戦後皇室の歩み体現 戦争への反省生涯抱く」とある。文中の後半、次のような一節があるのが目に止まった。
《戦後は東大で学び、歴史研究者の道を選ぶ。戦後改革によって、それまで皇族として祭り上げられていた生活は激変した。通学には満員電車に揺られ、時にはダットサンの自家用小型トラックを自分で運転した。
「さいわいにも終戦後の民主化政策の世の中に東大に籍を置くことができたからこそ、講義のときには前でも後でも自由に好きな席に坐れたし、後方のお目付役に後髪をひかれる思いもなく、そして昼休みは薄ぐらい研究室の片隅で、愉快に友だちと語りあいながら塩鮭のはいったアルミの弁当箱をひらく楽しみも味わえた」(著書『帝王と墓と民衆』所収の「わが思い出の記」)と振り返った。
「(敗戦、戦争裁判という)悲劇のさなかに、かえってわたくしは、それまでの不自然きわまる皇室制度――もしも率直に言わしていただけるなら、『格子なき牢獄』――から解放されたのである」(同書)》(中略)
 悲惨な戦争を軍人として見聞し、戦後の平和と民主化によって、実は皇室の側も解放されたのだということを体現した、昭和世代の最後の宮さまだった。》

 いかにも懐かしかった。
 この『帝王と墓と民衆』という本、今、手元にはないが、昔たしかカッパ・ブックスの一冊で読んだ記憶がある。
 切れ切れの感想を記す。
 この「愉快に友だちと語りあいながら塩鮭のはいったアルミの弁当箱をひらく楽しみ」というのはいかにも庶民的である。
 それは生まれてからこの方、ずっと窮屈な王族の生活を強いられた人間のみが言いうる言葉だと思えた。
 しかし、それでは、三笠宮崇仁親王よ、君に問う。
 貴君の長兄、幼名では迪宮裕仁、その後、皇太子になり、また摂政にもなった人、すなわち追号を昭和天皇といったあの人は、一体、どういう境地であっただろうか。
 一面から見れば、彼の人、昭和天皇は、およそ人間として生まれながら、人間らしい自由な境地、いわば人間の愉しみというものを生涯にわたって味わえなかった人に見える。だが、本当にそうだったのだろうか。
 いや、そんなことはない。なかった。ある筈がなかった。彼はその楽しみは知っていた。
 衣食住に満ち足りた、贅沢三昧の生活。自分の、こうだと思った意向はすぐに叶えられた王者の生活。後宮はなかったが(自らそれを断絶したのだから)、恋女房ともいうべき良子さんを娶り、性生活的には充たされないことは全く無かった筈である。
 ただ、彼には、庶民ならば誰でもが味わえる楽しみ、例えば、縁側にほとんど裸同然の恰好で涼む江戸期、あるいは戦前期の職人のような放縦な楽しみは無かったかも知れない。
 しかし、更に問う。この人には戦後の解放などはあり得なかったのかも知れないが、さて、どうか。
 彼には「解放」などは無かった。というのは、そもそも「格子なき牢獄」などというものは、この人には無縁のものだったのである。
 彼は生まれながらの帝王であった。いや、本来の資質的には彼はむしろ小市民的であったのだが、しかし生まれと育ちとは彼を帝王的な存在として成長させ、成熟させたのであった。
 天皇という存在には常に二つの顔がある。それは統治の王という個別現実的な側面と、宗教的な神聖王という共同幻想的な側面との二つである。
 昭和天皇、迪宮裕仁は、この二面性を生涯、いとも楽々と演技してのけた。それ故、この人には毀誉褒貶が常に付き纏った。
 しかしこの人、昭和天皇はもっと本質的に自在な人間だったのではないか。
 例えば彼は13歳の大正3年6月7日、「日曜日 雍仁親王・宜仁親王参殿につき、御庭にてワニ等をお見せになる。午後は迷路やデッキゴルフなどにてお遊びになる。」
 これを見れば、彼がいかに自由・自在の人であったかが、この上もなく明らかではないだろうか。
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2016年10月28日

『実録』メモ (88)双子の兄妹

 三笠宮崇仁親王が10月27日午前8時34分、東京の聖路加国際病院で死んだ。大正天皇の四男として1915年(大正4年)12月2日に生まれているから、満100歳になる。幼少時の称号は澄宮、昭和天皇の末弟で、歴史学者でもあり、従軍経験もあったこの人の生涯については、のちに兄弟である秩父宮・高松宮と共にさらに触れる機会が多いと思うので、ここでは省略し、ただ追悼するにとどめる。
『昭和天皇実録』における誕生の記事としては、同日の項に「御夕餐後、皇后御分娩、皇男子誕生の報に接せられ、…」、翌3日の記事に「午後、青山御所に御参殿になる。雍仁親王・宜仁親王と御一緒に、御奥において新誕の皇子に御対顔になる」とある(『第二』170p)。
 ところで、河原敏明の著に『昭和天皇の妹君』(文春文庫)というのがある。副題が「謎につつまれた悲劇の皇女」という。衝撃的なのはこのタイトルである。昭和天皇には前記の三人の弟がいたが、妹はいないはずである。しかし実は、三笠宮と双子の皇女がいて、それが隠されて山本子爵家に入籍し、やがて五歳で奈良の尼門跡寺院・円照寺に入山した。後の山本静山門跡がその人、つまり三笠宮と双子の皇女だったというのである。
 河原の論証過程はかなり具体的で、状況証拠としては読んで肯定される真実味を帯びている(少なくとも同時に言及されている明治天皇の「隠し子」の話よりはずっと信憑性がある)。しかしそのことは私の直接の関心事ではない。むしろその背景にある様々の事情、例えば皇室と門跡寺院との関係とか、大正天皇の皇后(貞明皇后)である九条節子の人柄とか、特に「忌まれた俗信」の項に書かれている「畜生腹」という迷信が興味深い。
 今では双子・三つ子は特に忌まれない(むしろ微笑ましく迎えられる)が、昔は(戦前までは)違って「畜生腹」といって蔑まれた。特に男女の双子は「夫婦子」といって疎まれたという。そして節子皇后は「宮廷の伝統やしきたりを極端に墨守される方であり、ご聡明な反面、迷信に類する俗習や巫易占卜のことにも、異常なほどにご執心だった」ことから、双子の兄妹を忌避して、妹を隠したのだと、河原は推測している。皇室での出産時には着帯の儀がある。その前に侍医が触診・聴診をする。そこで胎児が二人いるとのことに、母である貞明皇后は大きな衝撃を受けた。「双生児、特に男と女のそれを忌む俗信が脳裡に去来した。」そこから「この悲劇がスタート」した、と河原は見る。それは皇后の古い体質と、「皇室伝承の古例、習慣によるものも大きい」というのである。
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2016年10月24日

『実録』メモ (87)帝王学の時代A君徳の涵養

『昭和天皇実録・第四』の中に、文学博士・三上参次による「君徳涵養ニ関スル維新元勲ノ事蹟に就テ」と題する東宮御学問所での講話の記述がある(569p、579p)。これはいわゆる帝王学の一環として行われたものだろう。こういう「君徳涵養」という面での帝王学は裕仁の資質に合致していたので、それは確かに成功であった。しかも、こういう方針は実は裕仁の幼少期からの養育・教育に一貫していたものなのであった。
 最初に迪宮裕仁の養育を委嘱された川村純義の所信(明治34年5月5日、『第一』18p)において、それは十全的に披露されていた。
《予固より才なく而して既に老ひぬ。重任堪ゆる所にあらざれども殿下の御直命黙止し難く御受けを致したり。而して降誕あらせられたるは男皇子なりしかば慶賀禁ずる能はざると共に我が責任の更に重きを感ずること切なり。
予や聖恩に浴すること多年、せめては老後の一身を皇孫の御養育に委ねこれを最後の御奉公として鞠躬尽瘁の至誠を捧げまつらむのみ。
皇長孫御養育の重任に膺るものは、殿下が後日帝国に君臨して陛下と仰がれ給ふべきを理想として養育し奉るの覚悟なかるべからず。而して第一に祈念すべきは心身共に健全なる発育を遂げさせ給はんことなり。
人君たるものは御親子の愛情御兄弟の友情皆臣民の模範たらざるべからず。されば御父たる皇太子殿下御母たる妃殿下が常に皇孫の御養育を監視し給ひ、御養育の任に当るものも常に両殿下の御側近くにて養育しまつるを勉めば御親子の愛情愈々濃かなるべく、而して今後降誕あるべき皇孫は御幾人あるとも同じ御殿に於て養育し奉り、御遊戯にも御食事にも御勉学にも机を同じくし卓を同じくし庭を同じくせらるるあらば、皇子女の御友情も敦く心身の御発達健全にして行く行く臣民の模範となり給ふべし。
畏多きことながら封建時代に於ける大名教育の如き弊はゆめゆめあるべからず。槖舵師が植木を曲げて天然に反する発育をなさしむるは大名教育の著しき弊害なりき。
御養育の任に当るものは物を恐れず人を尊むの性情を御幼時より啓発し奉り、又た難事に耐ゆる習慣を養成し奉るの覚悟をなし、天稟の徳器に気儘我儘の瑕を一点にても留めまつるが如きこと決してあるべからず。幼児の養育は此を以て肝要とす。尊貴の方々に於て特に然りとす。日本も既に世界の列に入りて国際社会の一員たる以上は子女の教養も世界的ならざるべからず。特に後日此の一国に君臨し給ふべき皇孫の御教養に関しては深く此点を心掛けざるべからず。皇孫の成長し給へる頃に至りて彼我皇室間及び国際の交際愈々密接すべきことを予測すれば、御幼時より英仏其他重要なる外国語の御修得御練習を特に祈望せざるべからず。》
 これほど見事に迪宮裕仁の養育方針を示したものはない。そしてこの点において、裕仁はほとんど完璧にそれを実現したとも言えるのである。

 その後の裕仁の養育は、明治41年の学習院初等科における乃木希典院長の教育方針をも含めて、ほぼすべてこの線に沿っていたと言っていい。幾つかの例を挙げよう。
・明治39年(5歳時)6月14日
《頃日、御相手の用いる「此やつ」「ヤイ」「ウン」等の言葉を御使用につき、皇孫御養育掛長丸尾錦作より、御使用を慎むべき旨の言上を受けられる。》。
・明治40年(6歳時)1月10日
《なお、(幼稚園)課業開始に当たり供奉員より日常の御心得として、左の趣旨の言上を雍仁親王と共にお聞きになる。
一、丸尾はじめ臣下の何事か言上仕る折には暫く御こらへ遊ばして御聞きいれ遊ばしたまふ御事
二、お稽古の時は御一心に遊ばす亊
三、近日御相手出仕いたすにより之れらのものとよく御共同に御遊びあそばす御事
四、お六つとお七つの御えらき宮様に在らせらるれば、之れよりはあまり御涙をいださせたまはぬ様に遊ばす亊》
・同年2月22日「侍女より粗暴な御行為(動物虐待・器物損壊等)につき諫言を受けられる」。
・同年4月4日「乃木希典に賜謁」。
《乃木より、今日の様に寒い時や雪などが降って手のこごえる時などでも、運動をすればあたたかくなりますが、殿下はいかがでございますかと尋ねられ、ええ運動しますとお答えになる。》

 これらを通観してくる時、そこにはむしろ川村純義の言う「槖舵師が植木を曲げて天然に反する発育をなさしむる」ことに近い要素を帯びているのではないかという惧れさえを感じる。しかし裕仁にはその「大名教育の著しき弊害」はほとんど見受けられない。それは彼の生来の資質の純朴さによるものではないか。
 後年、昭和天皇はその人柄について「ロイヤル・イノセンス」(山崎正和)と評されたことがある。またコラムニストの中野翠が昭和天皇に「何かとても懐かしい感じがした」と書いていたことも記憶に残っている(『文藝春秋』1989年3月号)。
 中野はこう書いている。
《あの、時に滑稽なほどの生真面目さや、懸命さ。ボキャブラリーが乏しく自己演出できない不器用さ。一直線の感じ。その妙な懐かしさは、私が敬愛してやまない俳優・笠智衆を思い起こさせる。私が天皇を好きだと思う気持ちと、笠智衆を好きだと思う気持ちはどこかで深くつながっている。》
 また、さらにこうも言い添える。
《私は天皇のそういう面妖なカリスマ性を、ひとことで表現するなら「イノセント」と思った。
 そこには「無私」「無垢」「超俗」といったニュアンスもあるし、近代的自我とか自意識を持たない人間のある種の大きさに圧倒される気持ちや、あるいは私が愛してやまないハーポ・マルクスや「道」のジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)と通底するような美しさをたたえる気持ちもこめられているのだった。
 そのイノセンスこそが、私が子どものころ一番の疑問に思っていたこと――「権威の根拠は何か」という疑問に対して、ようやく探しあてた回答なのだった。》
 こういう気分というのは、完全にではないけれども、かなりよく分かる気がする。一種の喜劇性、そしてその底に途轍もない悲劇性を秘めていること、一人の本質的には極めて凡常の人間が、その生まれと位置と歴史との中で、味わわねばならなかった残酷さというものへの痛惜の念…。
 そういうかなり倒錯した意味において昭和天皇が近代日本史上、最も悲劇的な人間であったということは否定できない。その苦悩と悲劇性の根源は、一面的な映像投射だけでは描き切れないのは確かである。
 だからと言って、それが元首相の中曽根康弘のような昭和天皇讃美論にまで行ってもいいのだろうか(『天地有情――五十年の戦後政治を語る』文藝春秋)。
 彼はその著の中の「天皇には戦争遂行を否定する権限はなかった」の見出しの項目で、こう語っている(本書は、二人の学者によるインタビュー構成である)。
《その後、私もいろんな大臣をやり、また総理にもなって、昭和天皇にはかなり長い間お仕えすることになりましたが、人間的な深みというか、責任感と思慮の深さという点では、一二四代続いた天皇家の中では最高の天皇だったと思います。いわゆる天皇学というか、帝王学というものを完全にマスターしたりっぱな天皇だったと思います。もうこういう天皇は出ないかも知れない、そういう印象を持っていました。だから、あのとき退位せず、我慢されたことはひじょうによかったと、あとになって思いましたね。その意味で、天皇退位に関する私の質問は、あとで反省し、昭和天皇に首相としてお仕えしてみて、懺悔の気持ちが起こりましたことを告白しますよ。》
 中曽根元首相は、防衛庁長官(51歳で就任)から、通産相・科学技術庁長官・行政管理庁長官を歴任し、首相になる。この閣僚時代に、昭和天皇に接した体験を述べているのである。彼は1918年生まれ、1941年東大卒業後、内務省に入り、海軍経理学校を卒業し、巡洋艦「青葉」にも乗り組んでいる。
 ここで「あのとき退位せず」と言っているのは、1952年1月、彼が衆議院議員の時、衆議院予算委員会で吉田茂首相に天皇の退位問題について質問したことを指している。それについて、中曽根はこう述べる。
《たしか、あれは対日平和条約の発効を間近にして、いよいよ独立の日が来るというので、これは一度質しておく必要があると思って、吉田茂さんに質問したんですね。「過般の戦争について天皇には責任はない。しかし、人間天皇として、心の痛みを感じ道徳的呵責を感じておられるかも知れない。そういう場合、内閣はその天皇の自然な人間性の発露というものを抑えてはいけない。もし天皇が退位を考えておられるなら、内閣はそれを抑えるべきではない。天皇の退位という問題は、天皇が自ら考え自ら行動されるべきものではあるが、もしそのようなご決断が万一あれば国民や戦争遺族は感涙し、天皇制の道徳的基礎はさらに強まり、天皇制の永続性も強化されるであろう」というふうに質問したんです。
 すると、吉田さんは「昭和天皇はこのままぜひ仕事を続け、日本再建に努力していただきたい。天皇の退位を言う者は非国民であります」と答えました。吉田さんは、マッカーサー元帥が天皇の退位に反対し、首相も擁護論者だったから退位論が伝播するのを恐れたのでしょう。私は、それ以上、議論を続けることは避けました。》
 中曽根はさらに昭和天皇の振舞についてこうも述べている。
《中曽根 そうでしょうね。たとえば、各国の大統領とか総理大臣がやってきて、宮中で晩餐会があると、天皇は、各首脳以下随員の一人一人にも握手して、「よくいらっしゃいました」と挨拶されるのですが、首脳からずっと末端の随行の人たちに至るまで、同じようにていねいに誠意を込めて言葉をかけられるわけですよ。そういう姿を見ていて、ほんとうにりっぱな方だと思いましたね。私なんかだったら、外務大臣ぐらいまではていねいにやっても、あとは握手もしないで「ご苦労さん、ご苦労さん」と、そうなると思いますよ。一人一人、すべてに対してそうなんですから、ほんとうに頭が下がりましたね。
 昭和天皇は無器用なお人柄で、国民も、誠実で正直で純潔なそのお人柄をよく理解していたと思います。さもなければ、敗戦の元首であった方が全国を巡幸されて、あんなに国民が歓迎し、熱狂したことは考えられない。帝王学を完全にマスターされて、個人的意思表示は徹底して避けておられた。》
 ここで中曽根は「個人的意思表示」を徹底して避けることを帝王学マスターの証憑としている。その意味では確かにそうであることを私は否定しない(なお、ここに触れられた天皇退位問題、戦争責任論については後に別項で考えたい)。
 確かに昭和天皇の人柄は「無器用なお人柄」であったし、「国民も、誠実で正直で純潔なそのお人柄をよく理解していた」のかも知れない。だが、中曽根の言うように、「人間的な深みというか、責任感と思慮の深さという点では、一二四代続いた天皇家の中では最高の天皇だった」などという評価がそこから出てくるものなのだろうか。それは買い被りすぎである、と言わざるを得ない。もし昭和天皇が「いわゆる天皇学というか、帝王学というものを完全にマスターしたりっぱな天皇だった」のだったら、祖父である明治天皇が日露戦争に勝利したように、大東亜戦争に勝っていたはずだろう。何故なら、日露戦争だって、当時は皇国の興廃を賭けての戦いだったのだろうから。もし昭和天皇に帝王としての福運が充分に備わっていたのだったら、その結果は全く反対の結果になっていた可能性は絶対に否定できないのである。
 少なくとも、彼は開戦を何としてでも押し止めるべきだっただろうが、事実上、それは無理だったのだろうことを、私も了解する。日露戦争の場合はいわば「坂の上の雲」を目指してその坂を登ることに国民が一致していたのに対し、大東亜戦争の場合には、登れば降るの理に従って、転落と敗戦への道をまっしぐらに駆け落ちていく以外にはなかったのだろうから。そのことを私は肯う。だがそれなら、彼を歴代第一位の天皇などと、過度に称賛して貰いたくはない。彼は後白河でも後鳥羽でも後醍醐でもない、ある意味では天皇などという地位に置くのが可哀想なくらいに実直な人だった――。そう私は思うのである。
 今回はやや逸脱の感がある。ついつい本来もっとずっと後になってから論じるべき事項に及んでしまった次第だった。
posted by tabatabunsi at 00:02| Comment(0) | 『昭和天皇実録』メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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