2016年11月02日

『実録』メモ (90)終わりと始まり

 11月2日・朝日新聞夕刊「文芸・批評欄」のコラム「終わりと始まり」で、池澤夏樹が「内地から見る沖縄問題」という主題で「植民地の叛乱の構図」について書いている。総てのマスコミが、ある時点までは沖縄の味方の恰好をし、肩入れするが、しかし総ては「そして、そこまで」で終り、それ以上の追求はしない。その点でこれは「原発問題」と同じであると告発している。
 全面的に同感である。
 ただ、そこに私は、一点、付け加えたい。
 その元凶はいずこにあるか。と言えば、それは何故、日本ではかくも長く天皇制が温存され支持され続けているのか、という問いと同一の次元に帰着するはずである、と私は考える。
 その上で、事態が革命的に変化・変革する可能性について私は悲観的なのである。
 というのも、この根本にあるのは、天皇制問題も、沖縄問題も、原発問題も、すべては自分の生活範囲に入らない限り、言い換えれば、どこかの誰かの負担と苦悩の範囲にとどまっている限り、それは仕方がない、つまりはその人間の置かれた場所・時代・環境の然らしむる所であって、すなわちその人の宿命の問題であるに過ぎないという感覚である。
 その思考の最たる存在は、ある意味で、昭和天皇ではなかったか。彼は自分の宿命から脱出しようとか逃避しようとか反撥しようとか生涯思わずにその人生を完結させた。その途中では、日米安保を優先させて沖縄をも犠牲にした。しかし、その故に、われわれ日本人は裕仁天皇を責めることができるのだろうか。その資格はあるのか。と問えば、誰しもこれを肯い得まい。
 例えば『昭和天皇実録』大正4年1月19日の記事にはこうある。
《十九日 火曜日 午後、御飼養のハマグリを御観察になる。以後沼津御滞在中、しばしば貝類の御観察を行われる。》
 この無邪気な13歳の少年にすべての責任を負わせることは果して可能か。それは正義に悖らないか。そう問えば、明らかに彼には答責可能性は絶無であることが分かるだろう。
 で、問題はこうである。
 天皇制・沖縄・原発、すべての根は、それらを許容する日本人とは一体何か、どうしてそうなったのか、どうすればそれを変革できるのか、ということ以外にはないということである。
posted by tabatabunsi at 17:15| Comment(0) | 『昭和天皇実録』メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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