2016年12月30日

『実録』メモ (96)機械仕掛けの人形?

 昭和天皇の関連図書を読んでいると、奇妙な感覚に囚われることがある。
 例えば『昭和史の天皇』第一巻『空襲と特攻隊』の冒頭に「天心の笑い」という節がある。戦後の天皇はともかくよく笑った。「その笑いは、文字通り天心の笑い、とでもいうか。顔だけでなく、全身をゆすぶってお笑いになる。俗に腹をかかえて笑うという表現もあるが、それとてもいいあらわし得て正確とはいい難い。天皇の笑いというのは真底からのもので、見ていてこちらがうれしくて涙が出るような笑いである。」その後、具体的な情景が紹介されている。読んでいて、馬鹿らしくなった。これほど天皇に憧憬し崇拝していける人間がジャーナリズムに存在するということが不思議だった。これは昭和28年のことである。あれだけの大敗戦の後、そういう風な笑いが出来る人間というのがあるのだろうか。と、私は思った。何かそれは人間離れした存在ではないか。機械仕掛けの人形のような…。いつでも笑いこけることのできる人間・人形。生身の人間とは思われないのであるが、たしかに昭和天皇の場合にはそういう情景がくり返されているようである。これをロイヤル・イノセンスという人もいるようだし、無垢の生命の発露のように称賛する人もいる。
『昭和天皇実録』大正10年11月5日の項、「原総理の遭難」の記事がある。前日の4日、東京駅で原敬が刺殺されたという報を裕仁皇太子は聞く。そしてその翌日の記事に彼はゴルフ練習などをして過ごしているのである。私は目を疑った。裕仁天皇にとって、原敬の死はその運命に大きな影響をもたらしたものだった、と伊藤之雄が言っていることはいつか引いたことがある。勿論それは、歴史的に後になってから分明になったことであるけれども、時の総理が異常死を遂げた翌日に平然とゴルフ練習をしていられる神経というのは何なのだろうか。
 そう言えば、同じ11月の22日に、裕仁の摂政就任に伴い、浜尾新から珍田捨巳への東宮大夫の交替が行われている。そこでは「浜尾へは大正三年以来奉仕の廉により御紋附銀製花瓶一対を下賜され、併せて賜金あり」という記事がある。
 ところで『牧野伸顕日記』同日条には次のような記事がある。当時、牧野は宮内大臣だった。
《浜尾退引については前日来非常に苦心したが、漸く順調に進行する事となり大に安心。/今朝九時高輪御殿へ伺候。/皇太子殿下へ拝謁、(中略)浜尾辞職の事を申上げたるに、七、八年間奉仕者の辞任なるに拘はらず別段の御表情なく御認可の旨仰せあり。》
 つまりこれが裕仁という人の日常の挙措だった。特段に不人情というのでもない。冷血とか冷淡というのでもない。彼にとってはすべては寄せては返す波のように自然であり、平常であり、時間の進み方であった。だからそれを殊更に「機械仕掛けの人形」などというのも不適切なのかも知れない。
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2016年12月15日

『実録』メモ (95)そして誰もいなくなった…

 アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』はかつて私が愛読した推理小説であるが、密室の孤島で、被害者だけが存在していて、加害者と目すべき者たちが次々と殺され、消えてゆく。被害者即加害者、加害者即被害者であり、最後は「そして誰もいなくなった」というわけである。あり得べからざるような設定の無類の面白さが、この小説の魅力であった。それを現実になぞって見せたような歴史が戦前日本の実態だった。それは丸山眞男の言うように、次々と成り替わり、登場しては消え、消えてはまた新たに登場する(しかし実質的な責任は誰も主体的に負おうとはしない)連鎖的な政権たち…。何れも何らかの決断の責任を負おうとはせず、勢いに押されてそうしたに過ぎないという風情で、実際にそうも抗弁し、自己弁護したのだった。歴代内閣、総理、誰ともつかずに戦争への道は進行した。…その象徴が天皇という存在だった。
 その天皇も遂に責任を一身に負わない存在だった。…
 この元型はどこから始まったのか。
 私は明治の末期にそれはあったと思うのである。
 幕末維新には西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允という三傑がいた。公家では三条実美と岩倉具視がいた。群像の中で、やはり実力者は岩倉と大久保だった。彼らはたとえば「悪」とか専制者とかの汚名を着ても、それを越えた未来ヴィジョンを持ち、描き、それで日本国家を創造しようとする構想力を持った人間だった。私は大久保よりも西郷が好きだし、何よりも木戸には気質の近さを感ずるのだが、しかし西郷も木戸も所詮は未来構想力を現実に即して発揮し得るタイプではなかった。ただ大久保こそウエーバーの言う意味(『職業としての政治』で、それは理想を現実化し得るための苦闘を厭わないタイプとされた)での唯一の政治家だったのである。大久保亡き後は、その任を受け継いだのは伊藤博文だった。元勲・元老たちは数多く(7人)いたが、その基軸は伊藤だった。(それに比すれば、山県も劣る。いわんや、その他の人達は殆ど問題外であった。)
 その元老たちの死没年は次の通りである。…
 黒田清隆 明治33年(1900年)8月(59歳)(『昭和天皇実録』の記事以前になる)
 西郷従道 明治35年(1902年)7月(59歳)(『実録』には、記録されていない)
 伊藤博文 明治42年(1909年)10月(68歳)(以下は、それぞれの年次において記載されている)
(桂太郎 大正2年(1913年)10月(65歳)(*次の元勲優遇)
 井上馨 大正4年(1915年)9月(79歳)
 大山巌  大正5年(1916年)12月(74歳)
 山県有朋 大正11年(1922年)2月(83歳)
 松方正義 大正13年(1924年)7月(89歳)
 何れも、『昭和天皇実録』の記述は事務的で素っ気ない。明治天皇にとってこそ彼らは同時代の同志だったが、昭和天皇にとっては単に歴史的存在であるにすぎなかっただろう。
 これらを見れば、伊藤博文の暗殺死の後、元老制は実質的に崩壊したことが分かる。
 何故なら、元老制の意味は、有力で強力な存在が中軸としていて、その周囲に、それに匹敵するような存在が二つくらいはいること、つまり少数多元制であることが必須不可欠だったからである。これが統治のためには極めて有効・有益・有用な役割を果たす存在となり得たのである。あまりにも多過ぎてもいけないが、二極的な対立ではまた不可なのである。三極か、せいぜい四極くらいの争覇が理想的だった。それだと鼎のように中庸を取りやすいのである。
 大正の末年に元老たちが死に絶えて、あとは「最後の元老」西園寺公望だけがいた。一人では、元老の存在価値・理由は無に等しいのであって、多元的に争覇していてこそ、天皇にとっての元老の存在意味はあるのだった。それは天皇にとって、下問する対象が多元的に存在するということを意味しており、それでこそ有意義なのだったが、昭和天皇の治世においては、元老は殆ど全く機能を果たすことがなくなってしまったのであった。…
 昭和の絶望的な暗さ、惨めさは、ここから胚胎することになるのである。
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2016年12月14日

『実録』メモ (94)「宮中某重大事件」の深刻な影響

『昭和天皇実録』大正10年(1921)2月10日に、いわゆる「宮中某重大事件」についての記事がある。標目は「良子女王との御婚約内定に変更なき旨の発表」である。
《十日 木曜日 この日夕方、皇太子と良子女王との御婚約内定に変更なきことにつき、内務省、ついで宮内省より発表される。宮内省発表は左の如し。
 良子女王東宮妃御内定の事に関し世上種々の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更せず
これより先、元老山県有朋らが、良子女王の子孫に色盲が遺伝する可能性があることをもって、女王の父邦彦王に対し婚約辞退を求めた問題につき、当局は一切の新聞報道を禁止していた。しかし、昨年十二月四日に辞表を提出した東宮御学問所御用掛杉浦重剛が、一部関係者に顛末を語って御婚約決行を求める運動を行ったことなどにより、この間題の存在が徐々に知られ、政界の一部、とりわけ右翼方面において、御婚約の取り消しに反対するとともに、宮内省や山県有朋を攻撃する運動が広まっていた。昨月下旬には久邇宮を情報源とし内情を暴露する「宮内省ノ横暴不逞」なる小冊子が各方面に配布されるなど各種怪文書が横行し、問題は議会においても取り上げられ、本月十一日の紀元節には明治神宮において御婚約決行を祈願するという、右翼諸団体による大決起大会が計画された。こうした事態の中、山県ら元老は御婚約を辞退すべきとして譲らず、一方で具体的報道は一切禁止されたものの、新聞の報道ぶりから一般国民にも宮中方面に重大問題が進行中であることは明らかであり、官内大臣中村雄次郎は何らかの決着を早期に図ることを迫られた。その結果、中村宮内大臣は自身の責任において事態を早期収拾することを決意し、この日良子女王の御婚約内定に変更なきことを発表するとともに、自身の辞職も表明する。》

 この事件自体には私は興味はない。ただその結果については重視している。というのは、この結果として、元老山県と宮内省の権威が失墜し、右翼・保守勢力の勢いが急速に抬頭したということが、その後の(昭和において特に顕著になった)政治状況を生むに至る原因をなしたからである。つまり、右翼・軍部と、重臣・宮内官吏との対立という局面を構成したのである。これは元老・政党・陸海軍・藩閥・宮内官僚等という多元的な勢力の葛藤と調和によって特徴づけられる明治にはなかった様相である。(その後、2月21日、山県有朋は、枢密院議長の辞表の他、皇太子妃問題の責を引き一切の官職並びに栄典を辞する旨の封事を天皇に提出した。)
 裕仁皇太子の倫理学の教師であった杉浦重剛の魅力は確かにあるが、しかしこのことは、皇太子がやがて即位して天皇になった時に苦しめられることになった問題の根源をなしているのではないか。歴史は皮肉な展開を呈するものだというだけでは済まない深刻な「重大事件」だったのである。
posted by tabatabunsi at 19:41| Comment(0) | 『昭和天皇実録』メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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