2017年01月07日

『実録』メモ (100)白鳥庫吉『国史』を読む

 東宮御学問所での重要主題は「倫理」と「歴史」だった。
「歴史」の担当は白鳥庫吉で、大正3年9月11日の『昭和天皇実録』では、「『国史』の印刷成り、明日より使用」との記事があった。
 今、その『国史』の復刻版が出ている(勉誠堂出版)。題は『昭和天皇の教科書「国史」』というもの。それは元・御学友であり、後に侍従にもなった永積寅彦氏が保存していたものである(元は5冊に分かれていた)。
 これは、神話時代、神武天皇から先帝(明治)天皇に至るまでの日本歴史である。もちろん特異である。何故なら、こんな形式の日本史は、戦後は払底してしまっていたからである。しかし私は、ちょうど『天皇の歴史』シリーズ(全10巻)を読んでいた時だったので、違和感がなく読めた。確かに日本史はいわば天皇史・皇室史でもあるのであって、そういう制度を私個人は好まないけれども、日本国民の過半数以上の支持があるのであってみれば、これはまた已むを得ないのである。という位には、私は柔軟なのである。
 もっともこの教科書の全部が白鳥の著述であるのかどうかは定かではない。というのは『昭和天皇実録』(2−63)に、次のような記述({津田左右吉等へ、嘱託の辞令})が見られるからである。
《大正3年7月8日 東郷総裁より、白石正邦・津田左右吉に対し、東宮御学問所用歴史編纂の委嘱。嘱託の辞令が交付。》
 もしこれが実際であったとしても、白鳥は本来、東洋史が専門であるから、日本史専門学者の協力を得たとしても不思議はない。それは別として、この著作が力作であることに私は異存がない。少なくとも私は、こんなに簡便にして要領を得た天皇史(通史)を退屈せずに読んだのは初めてであった。その主題の一貫性や論述の説得性はさすがだと思わせた。
 私の所感を(例によって)三点指摘しておこう。
 第一。白鳥は元来、神話は歴史とは別次元のものと断じていた筈なのだが、本文を読むと、必ずしもその断絶性は明らかではなく、むしろ連続性を肯定しているように見える。これは日本の学者の融通性というか妥協性、あるいは曖昧性といったものの象徴でもある。それが「和を以て貴しと為す」精神の根源であるのだろう。それが本書を「帝王学の教科書」とする所以であろう。つまり白鳥もまた典型的な日本人である。つまり融通主義・調和折衷主義であるということである。
 第二。歴代天皇に関しては、能う限り、歴史的に公正な視点に立とうと努めている姿勢が伺える。その主旨は歴代天皇の「聖徳」を顕彰(検証)することにあるのだが、同時にその欠陥・失政をも率直に指摘している。それが白鳥の歴史学者としての譲ることのできない根拠だったのだろう。
 しかし、これは歴史学者の通弊(必然)なのだろうが、いつも予見性という(本来、歴史の根源的意味であった筈の)点において、盲目的であることが明らかになったのである。
 例えば、彼は、「総説」で「帝国の領土及び位置」「帝国の民族」を論じているが、それは常に現状肯定の上での説明であるに過ぎない。領土についていえば、上代においては「大倭秋津島」のみだったが、現代では「東北千島樺太より西南台湾に至る間に点綴せる一大列島と、亜細亜大陸より突出せる朝鮮半島とを包含」しているので、結局はすべて「協同一致して堅実なる国民的精神を養ひ、以て帝国の実力を発達せしめ、国民の生活を豊富ならしめ、また列国の民衆と共に世界の文運を増進せしめざるべからず」と、要するに微温湯的な・中庸公正で凡庸な結論しか提示し得なかったのである。
 第三。多彩な論述の究極の結論として示唆されているのは、明治天皇の理想化(称揚・宣揚)であり、「大帝」化への道程である。実際、全体で710pのうち、明治天皇の箇所は75pを占めている。つまり、11%である。つまり、122分の1であれば、約6pであるに過ぎない筈なのに、その10倍以上を占めているということである。明らかに結果としてこの『国史』は先帝である明治天皇の宣揚を目的としているように見えるのである。
 歴史の理想化の挙句は、その後の歴史展開においてどのような結果を齎したのだろうか。裕仁摂政(皇太子)にとってそれが果たしてプラスだったかマイナスだったかという点については、早急な結論を出すことはできない。それは、第二部「大元帥の時代」の焦点になるだろう。
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2017年01月04日

『実録』メモ (99)『倫理御進講草案』を読む

 大正3年4月から始められた東宮御学問所の七年間の教科は多岐にわたったが、帝王学の中心は倫理・歴史の二つである。特に核心は杉浦重剛の倫理の進講内容にあった。(『昭和天皇実録』によれば、倫理は月曜日と木曜日のそれぞれ第一時に宛てられた。『第二』35p)。
 その杉浦重剛の講義草案である『倫理御進講草案』を入手した。奥付には初刷・昭和11年4月3日発行、昭和12年3月3日・十四版とある。発行所は「杉浦重剛先生倫理御進講草案刊行会」(日本中学校内)で、編纂者は猪狩又蔵である。古びているが、大判で1180ページ余に及ぶ大冊である。ちなみに私はネット(日本の古本屋)で1500円(送料共)で購入した。
 目次を見ると、第一学年(大正3年)の冒頭「第一 三種の神器」から始まり、第七学年(大正9年)の最後の「第六 運用之妙存乎一心」までの155項目と、第一学年の第二課の「教育勅語」(11回)がまとめて配置されている。もっともこれが実際の講義と全く同じかどうかは不明であるが(「後記」によると、題目のみが残っていて草案が失われているものが多数に及んでいる)、ともかくもその内容の全貌を伺うに足る資料であることは間違いない。
 四角ばった生硬な本かと思って読んでみると、これが意外に面白い。確かに古色は否めないが、古今東西の人物と逸話を縦横無尽に展開した、堂々たる文章で、杉浦の渾身の力作と評価していい。
 最初に「倫理御進講の趣旨」という文章がある。そこでは進講の「大体の方針」として、三項目が挙げられている。
《一、三種の神器に則り皇道を体し給ふべきこと。
 一、五条の御誓文を以て将来の標準と為し給ふべきこと。
 一、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給ふべきこと。》
 これを見ると、いかにも右翼的皇国主義の鼓吹のようだが、論旨を辿ってゆくと、必ずしもそうとは言い切れない。むしろ「杉浦の倫理の授業は、当時の日本の状況から見て、特別に偏狭な思想を裕仁親王らに植え付けたわけではないといえる」という評価(伊藤之雄)さえされ得るような内実を持っている。
 全体を通読しての私の感想は次の三点に要約される。
 第一は、杉浦の皇統の捉え方はしごく倫理主義的であるということ。
 杉浦は三種の神器は「知仁勇の三徳」を示すもので、中国の『中庸』にも知仁勇は「天下の達徳」であるといい、西欧ではこれを人心作用の「知情意」の三つに分けると見た。知は一致し、そして情は仁にあたり、意は勇である。従って「支那も西洋も其の教を立つること同一」であり、要は「知仁勇の三徳を修養するを以て目的」とする。「唯彼に在りては理論よりして之を説き、我に在りては皇祖大神が実物を以て之を示されたるの差あるのみ。」そういう論理である。そして杉浦は、歴代の天皇の中で「特に天智天皇は知、仁徳天皇は仁、神武天皇は勇を代表せらるるもの」として称揚し、三天皇の行蹟を解説した。
 こういう論理それ自体はいかにも日本固有のややコジツケ的な教学論議だと思う。 こじつけ的語呂合わせ的な。もし受講者が睦仁(明治天皇)だったらつまらぬと言い捨てたかもしれないし、嘉仁(大正天皇)だったら退屈に耐えずに飛び出したのではないか。しかし裕仁(昭和天皇)はこういう進講を律儀に聞いて理解し咀嚼し納得しただろう。「生真面目で几帳面で公正な性格は、学習院初等科時代にすでに形成されていた」(伊藤之雄)からである。
 ここで注目されるのは、こういう解釈が、皇統の捉え方としては「血統」そのものの継続性にすべてを無条件に置くのではなく、それは知・仁・勇という君徳の発揮によって保持されるという考え方である。「血統」に神秘的な重点を置くのであれば、極言すれば天皇は凡庸でも放逸でもいいので、その存在自体に価値と意味とがあるということになるが、「君徳」を強調すれば、あくまでその天皇の資質こそが天皇にふさわしいものでなければならないことになる。これは在りのままの天皇ではなく、ある規範から見られた天皇存在を前提している。このことは神秘主義な皇国観とは異なり、いわば原理主義的であり、厳格主義的である。後の軍部右翼の傾向性にも見られるような、ある君主イメージに固執し、それに違うと反抗をも辞さないという態度になる。いわば天皇という現身にかなりの抑圧を加える心情を持っているのである。後の「宮中某重大事件」で杉浦が発揮した役割の萌芽がすでに見えるだろう。
 第二に、杉浦の講義は、きわめて広範に和漢洋の歴史・人物を包括していること。それはいわば摂取主義、或いは同化主義と言ってもいい。例えば、彼は「基督」(第五学年・第二学期の第六項)の中で、キリスト教について概論を展開しているが、それは全く排斥的ではなく、よくキリスト教の本質や歴史等についての要点を抑えているとも言えるものである。しかし杉浦は、それが日本で理解されるためには「之を日本の国風に同化せしめ、国家主義と為すの要ありとすべし」と言う。これは「第五学年・第一学期・第一」の「釈迦」についても同じであり、その結論をこう締めくくっている。「仏教は我が国に伝はりてより、年を経ること已に久しく、今日既に一大勢力を有することなれば、希くば之を我が国体に融和せしめ、以て人民の道徳を向上せしむるの助となさん。」これは要するにその次の項目にある「和魂漢才」の趣旨である。彼によれば明治21年の雑誌『日本人』(今の『日本及日本人』)が掲げた「日本主義」を「国粋保存主義」であると説き、それが「西洋文物心酔の幣に反抗して」唱道されたものであると論じる。そしてこう言う。
《我が国は古より能く外国の文物を学び、其の長を取り、短を補ひて以て自国の文明を進展せしめたるなり。故に今後と雖も、固より彼の長を取りて我の短を補ふこと肝要なりとす。英も学ぶべし。仏も学ぶべし。然れども其の精神に至りては、断じて古来の美を銷磨せしむることあるべからず。是れ即ち平安朝に於て和魂漢才の唱道せられたる如く、大正以後に於ては和魂洋才を力説せざるべからざる所以なり。》
 確かに平安期の摂取・同化は謙抑なものだった。漢字を「真名」と呼び、そこから「仮名」を作った。これが日本文化、或は日本・日本人の本質であり、特徴である。ではその「銷磨」せしめてはならぬ「国体」の核は何であるか。それは例えば教育勅語である。「可畏けれども明治二十三年、教育勅語の渙発せられたるも、正に日本人として守るべき道徳の範を垂示せられたるものなり。」
 ただその道徳の内実は受動的で漠然としている。曰く言い難い態のものである。明治憲法の制定にあたって、伊藤博文は「国家の機軸」について述べた。(『憲法草案枢密院会議筆記』)
《これに反して我国に在ては事全く新面目に属す。故に今憲法の制定せらるるに方ては、先づ我国の機軸を求め我国の機軸は何なりやと云ふ事を確定せざるべからず。(中略)抑々欧州に於ては憲法政治の萌せること千余年、独り人民の此制度に習熟せるのみならず、又た宗教なる者ありて之が機軸を為し、深く人心に浸潤して人心此に帰一せり。然るに我国に在ては宗教なる者其力微弱にして一も国家の機軸たるべきものなし。仏教は一たび隆盛の勢を張り上下の人心を繋ぎたるも、今日に在ては已に衰替に傾きたり。神道は祖宗の遺訓に基き之を祖述すとは雖、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し。我国に在て機軸とすべきは独り皇室あるのみ。是を以て此憲法草案に於ては専ら意を此点に用ひ、君権を尊重して成るべく之を束縛せざらんことを勉めり。或は君権甚だ強大なるときは濫用の虞なきにあらずと云ふものあり。一応其理なきにあらずと雖、若し果して之あるときは宰相其責に任ずべし。或は其他其濫用を防ぐの道なきにあらず。徒に濫用を恐れて君権の区域を狭縮せんとするが如きは道理なきの説と云はざるべからず。乃ち此草案に於ては君権を機軸とし偏に之を毀損せざらんことを期し、敢て彼の欧州の主権分割の精神に拠らず。固より欧州数国の制度に於て君権民権共同すると其揆を異にせり。是れ起案の大綱とす。》
 日本には元来、「宗教」という発想がない。あるのは信心・宗旨という観念であり、そこでは神仏も儒教・道教も、キリスト教やイスラムでさえ摂取し同化し得る対象であった。機軸としてここでは皇室が持ち出されたが、もとより日本にはそういう「機軸」という観念がなかったし、我々日本人にとってはそれは永遠に理解不能のものである。我々は抑々生活・人生に「機軸」などを不可欠なものとして要請するということ自体に馴染んでいない。それは見真似に過ぎない。実体として在ったものでもなく、ただ作為として導入されたに過ぎないのである。
 第三に、杉浦倫理学の帰趨は「君徳」称賛にあった。前引の「三種の神器」の中で、天智・仁徳・神武を知・仁・勇の三徳に配したが、その帰結する所は明治天皇にある。「三年前に崩御あらせられたる明治天皇の如きは三徳を一様に具備し給ひたるものと拝察す。三徳の粋を集めて、之を発揮せられたるものを御稜威とは謂ふなり。」倫理御進講の究極はいわば明治天皇の甚だしい理想化にある。
 ところが私が『明治天皇紀』を通読して感じるのは、そういう何か超越的な「御稜威」といったものではない。むしろまだ少年にして即位した幕末動乱の真っただ中から、西南戦争、日清・日露戦争という、未曽有の内乱と対外戦争の渦中に身を挺して、悪戦苦闘というか、必死の葛藤の連続の中で、文字通り試行錯誤しながら人間として、また君主として成長してゆく一人の生身の人間像と、そこから受ける深い感銘である。それを具体的に述べるのは追っての別項目に譲るが、要するにそれは体制の創造期にあることの幸運というものなのだろう。そこでは常に実践があり、戦いの連続だった。これに反して、大正・昭和の二人の天皇の時代はいわば体制完成期であり、すべては実践的な政治学習ではなく「座学」に終始した。伊藤之雄は「東宮御学問所の閉鎖性」を指摘している。確かにそれも重要因子ではあろうが、根本的な時代環境の違いは圧倒的な問題であった。
 大竹秀一は『天皇の学校』(ちくま文庫)の中で、こう言っている。
《杉浦がここに基本方針として提示した三本柱は、明治維新によって始められ、明治憲法によって法的基盤が築かれた大日本帝国の国家存立の根底にある正統思想とぴったり合致するものであった。まさしく彼は、国家の正統思想の核心にあるものを、天皇倫理の基本としてつかみ出してきたのである。》
 それ自体は正しい。が、明治天皇はこれらの倫理を「学習」したのではなく、歴史の坩堝の中から「会得」したのである。出来上がったものをではなく、生成しつつある中で体得したのである。この違いは隔絶的に大きい。
 裕仁天皇は徹頭徹尾の平和主義者だった(?)。そうであるとして、
 大竹はまた「日本の天皇の場合、その政治的な働きと、人柄との間にはほとんど関係がない」というあるアメリカの学者(デービッド・A・タイタス『日本の天皇政治』)の言を引いて、こうも書いている(369p)。
《彼の説は確かに真実を衝いている。だが、もしそうだとすれば、東宮御学問所で杉浦が、次代の天皇と国家への熱い思いを込めて説いた帝王倫理は、いったい何だったのであろう。杉浦の「倫理」だけでなく、白鳥の「歴史」も、他の教師たちの講義も、つまり英明にして仁愛の徳を備えた君主の育成という目的のために彼等が注いだ熱意と努力は、天皇個人にとってはともかく、国家と国民という立場からすれば全く無益で無意味なことだったということになるのであろうか――。》
 しかし、事はそう簡単でもない。おそらく杉浦や白鳥らの教育は、裕仁皇太子の精神の奥深くに刻み込まれたはずである。ただそれらは理念としてであって、経験としてではなかった。昭和の歴史において、そのことがどういう経緯を辿り、どういう結果をもたらすに至ったのか。それは具体的な状況に即して検証してみなければならない。
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2017年01月02日

『実録』メモ (98)牧野伸顕の不安

『昭和天皇実録』読書の傍ら、参考として『牧野伸顕日記』を繙いていて思ったこと。
 一つは、この当時の政治家たちの日記における歴史事実への執念に似た記録性の凄さを見ていると感嘆を禁じ得ないものがある。『西園寺公と政局』にしろ、『原敬日記』にしろ、高松宮・牧野伸顕・木戸幸一・河井弥八等の日記にしろ、皆、こんな繁忙の歳月の中で、よくもこうまで克明詳細な記録を遺せたものだと驚かざるを得ない。
『牧野伸顕日記』の中で、牧野が前途を憂えている記事(大正13年7月2日)がある。元老・松方正義死去の報を受けての感想である。牧野は宮内大臣であり、裕仁皇太子は摂政である。
《明治以来凡そ半世紀の間政界に重きを為したる偉人を失ひ、過渡の時代におゐて重鎮を無くする事、公私共に心細き次第なり。時代の変遷は固より当然の事にして止むを得ざるも、中心人物たるべき後継者の現出せざるは誠に国家の大不孝也。余の視るところにては、今は西園寺、山本の公伯を除きては群を抜く公人なし。》
 この前に、すでに原敬は暗殺され、大隈重信・山県有朋も相次いで死去していた。唯一残った元老が最早高齢になった西園寺公望だけでは難局への荷が勝ちすぎることは明らかであろう。またそもそも元老というのは強力な人物が複数共存し得てこそ、バランスを維持し得るのであり、それが明治初期では維新三傑や岩倉具視、その後は伊藤博文・山県有朋を楕円形の複中心として(最強力な中心は伊藤だったが)いたからこそ、明治天皇の調停的介入が有効であり得たのだった。
 思うに昭和の不幸は、裕仁天皇の資質によるところは勿論あることを私は否定しないが、まずもって客観的情況において強力で多元的な元老が払底してしまったことに端を発しているのである。
 牧野の述懐、「中心人物たるべき後継者の現出せざるは誠に国家の大不孝也」という言葉はきわめて重い。牧野自身をも含めて、これ以後、「群を抜く公人」は確かに跡を絶つことになった。して、昭和は一気に奈落に落ちていくことになるのである。
posted by tabatabunsi at 23:38| Comment(0) | 『昭和天皇実録』メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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