2017年05月28日

俗情論 B権威の源泉

 神田神保町生まれ育ちの私にとって、東の神田明神と同様、西の靖国神社は全く町の鎮守の杜だった。今も変らぬ親しみの感情を持っている。
 それで、朝日新聞5月27日朝刊の(ニッポンの宿題)「靖国と戦没者追悼」の中で、特に最後の内務相であった三土忠造の孫だという三土修平氏の談話を興味深く読んだ(資料・1)。
 そこで明かされているのは、戦後、「民間の一宗教法人に変わるという道」を選んだ靖国神社が、「戦前と同じ国家神道的な姿のまま生き延びられた」という逆説である。それは国家機関という立場を捨てて私法人になったが故に、「どんな権力も靖国の信仰に干渉できない」からである。
 この指摘には目を瞠らされた。これを考えれば、古賀誠氏の言うような「靖国の合祀か分祀か」などは枝葉の議論に過ぎない。分祀すれば、天皇が参拝できるようになるのか。また、そうしてそれは国の追悼施設になり得るのか。いずれも困難である。
 問題は、憲法第九条と同じく、これも戦後の「戦勝国側に閉鎖」された状況という日本独自の宿命を負っているという点である。それを踏まえて、三土氏は、現在における戦没者追悼施設は「靖国と別につくる必要」がある、それが現実的と主張している。私も賛成だが、しかしそれでも靖国問題は解決できない。「静かな鎮魂の場として歳月を重ねることがふさわしい」のだとしても。

 別の記事の中で、片山善博氏が今の霞が関の状況について語っている(資料・2)。そこでは現在の「官邸の最高レベル」と、北朝鮮の「最高尊厳」、中国の「核心」とが類似の現象として捉えられているが、その質と規模は桁違いで、比較にするのも愚かしいくらいである。しかし、公権力の中に常に「最高」「核心」「象徴」というような神秘的・伝統的・非民主的な権威の源泉を欲するという根本志向において、東アジアの精神傾向における共通性があるのは事実だろう。それは絶対に必要不可欠なものであったからこそ、天皇制や天照大神信仰や伊勢神宮はこれほどに無窮であり、広範な支持・帰依を得ているのであろう。
 何故、それが必要とされるのか。民主を欲せず、専制を尊ぶということの由来はどこにあるのか。東アジアの人間の資質か、民族性か、あるいは風土性によるものなのか。その理由と根拠は依然として不可解のままであるが。

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(資料・1)朝日新聞5月27日朝刊、(ニッポンの宿題)「靖国と戦没者追悼」 古賀誠さん、三土修平さん

 国の戦没者追悼施設については、戦後、様々な議論が行われてきました。戦前は国の施設だった靖国神社は、戦後、民間の宗教法人になり、位置づけを巡る論争が続いています。新たな追悼施設を整備すべきだという意見もあります。どう考えたらよいのでしょうか。

 ■《なぜ》合祀でこじれ、議論先送り 古賀誠さん(元自民党幹事長)
 今の靖国神社は、多くの国民がわだかまりなく参拝できる施設にはなっていません。これでは、戦死した方々にとって、自分の死が無駄ではなかった、今日の平和につながっているんだと思える状況とは言いがたい。赤紙一枚で召集され、戦地で亡くなった人々の思いに、向き合えていないのではないでしょうか。
 私が4歳の時、父はフィリピンのレイテ島で戦死しました。貧しい生活を経て政治家になった私にとって、遺族会の活動はライフワークです。この問題を解決しない限り、戦後処理は終わらない。
 反省を込めて言えば、解決を先送りしてきた原因は、政治の貧困です。
 靖国神社の問題がこじれたのは、A級戦犯の合祀(ごうし)からです。1978年、当時の松平永芳宮司が、東条英機元首相らA級戦犯14人をひそかに合祀しました。昭和天皇が合祀に不快感を示し、このために参拝をやめたことが、故・富田朝彦・元宮内庁長官の記録で明らかになっています。
     *
 合祀で、天皇陛下が参拝することも、国民がわだかまりなく参拝することもできなくなりました。
 合祀か分祀(ぶんし)かは、国論を二分する難しいテーマです。政治家の意見も割れている。合祀を支持する人たちは、「太平洋戦争には植民地解放という大義があった」「分祀すれば、勝者の裁きである東京裁判を認めることになる」と訴えています。さらに、白虎隊など国の「賊軍」とされた人々までさかのぼって、合祀を求める政治家もいる。一方で、私のように、分祀することが、みながわだかまりなく参拝できることにつながるという立場の政治家もいます。
 日本遺族会も、議論を避けてきました。分祀といえば、職業軍人の遺族は反発する。一方、赤紙で召集された兵隊の遺族は、一緒にまつられることがとんでもないと思っている。議論しだすと分裂してしまう。難しいことは避けて、組織の結束が大事だ、とやってきました。
 自民党の支援組織である日本遺族会で、会長を務めていた私は2006年、分祀を提案しました。当時、遺族会で分祀を議論することすらとんでもないという雰囲気でした。今、やっと地方の遺族会で議論しようとする動きが出てきています。私が会長を務める福岡県遺族連合会では14年、全国で初めて、分祀を求める決議を採択しました。3〜4年かかりました。
 私は、国の追悼施設をどう考えるかという議論の前にまず、いまの靖国神社に、誰もがわだかまりなく参拝できるようにすることが先決だと思います。
 そのためにはA級戦犯の分祀しかないと考えています。私自身、東京裁判は非合法的だと思っています。しかし、だからといって300万人もの命が失われ、日本中が焦土と化したあの戦争に、誰も責任を取らないでいいのでしょうか。
 万が一、自衛隊に戦死者が出た場合どうするか、についてはさらに議論が必要でしょう。
     *
 私はこの問題の解決は安倍晋三首相にしかできないと思っています。保守的とされる人々に支えられた安倍首相だからこそ、国民を説得できる。首相に近い人にもそう伝えています。まずは遺族会、そして政治家の議論を積み重ねる必要があります。分祀ができれば、初めて戦後処理に本気に取り組んだと言える。未来志向というのなら、過去の反省の姿勢を見せなければ、誰も信用しないですよ。
 分祀によって、天皇陛下や多くの国民が参拝できない靖国神社の現状を打開する。そのうえで、国の追悼施設のあり方について議論を始めるべきだと思います。(聞き手・三輪さち子)
     ◇
 こがまこと 1940年生まれ。80年に衆院議員に初当選し、当選10回(福岡7区)。12年引退。02〜12年日本遺族会会長。

■《解く》千鳥ケ淵の整備が現実的 三土修平さん(元東京理科大教授)
 1946年1月25日に「神宮及神社ハ之(これ)ヲ宗教トシテ取扱(とりあつか)ヒ之ニ関スル事務ハ宗教法人令改正施行ノ日ヨリ文部省ニ於テ管掌スル」という閣議決定がなされました。靖国神社を除く神宮、神社を管轄したのは旧内務省でしたが、閣議決定で文部省に移った時の内相が私の祖父忠造です。こうした経緯を知った時から、本業の経済学のかたわら、ある種の宿命として靖国を研究してきました。
 戦後、様々な論争が靖国、戦没者追悼施設をめぐって繰り広げられましたが、冷静さと現実に基づく認識からは遠いものでした。
 「謀略史観」と「せっかく史観」というべき対立がありました。謀略史観は「戦後、占領軍の押しつけた改革は、日本の文化や歴史も無視した不自然な代物で早晩ただされて当然だ」と考え、靖国を元の姿に戻せと主張します。
 一方、せっかく史観は「戦後改革で基本的人権が尊重される民主国家にやっとなった。悪い方に引っ張ろうとする勢力があるが、現状を守ろう」という主張です。
 「戻せ」、「守れ」と言い合うばかりで、双方ともに、戦前から敗戦を経て、戦後何が起きたのかという事実を踏まえていません。
     *
 では、事実はどうだったか。私は「駆け引きと妥協の産物」というのが実態だと考えています。
 戦前の靖国は陸海軍が管理した国家施設です。国家のための戦死者は靖国で天皇の宗教である神道の祭祀(さいし)によってまつられました。
 天皇が統帥権を持つなかで行われた戦争で、軍国主義を称揚する場所でしたから、戦勝国側に閉鎖されても仕方がない状況でした。
 存亡の危機に直面した靖国が生き残りのため選んだのは、国家や公共の施設ではない、民間の一宗教法人に変わるという道でした。
 それは靖国にとって効果と制約の両方をもたらしました。基本的人権を日本に根付かせようとした占領軍は、宗教政策で「政教分離」とともに「信教の自由」を柱に据えました。ならば個人や団体が、いかなる信仰を持とうが持つまいが、国家権力は信仰者や教団に介入できなくなる。
 国家機関という立場を捨て、宗教法人になれば、どんな権力も靖国の信仰の世界に干渉できない。だから戦前と同じ国家神道的な姿のまま生き延びられたわけです。
 A級戦犯の合祀(ごうし)という国家監視下の施設なら起こりえないことができたのも、私法人だからです。
 同時に、ほぼ無傷で延命したせいで「戦前のシーラカンス」になり、時代に合わせて変化できなかった。現代の人々が「戦没者の追悼施設は必要だと考えるが、そのありかたはこうあるべきだ」という姿からは相当隔たっています。
 自衛隊の海外活動で、万一殉職者が出ても、靖国の新たな祭神としてまつることは無理です。隊員にはキリスト教徒や創価学会員もいる。信教の自由を定める憲法下で、天皇が軍を統帥した戦争の死者を国家神道の靖国に一律に束ねる過去の論理は通用しません。
     *
 従って、戦没者の追悼施設は靖国と別につくる必要があります。現在、身元が分からない戦没者の遺骨を納めている千鳥ケ淵戦没者墓苑を国の戦没者追悼施設として整備するのが現実的でしょう。
 2013年に米国の国務、国防両長官が千鳥ケ淵で献花しました。一気に追悼施設に拡充するのが難しいなら、外国の要人が訪れる度に案内して、慰霊の場の実績を重ねていけばいいと思います。
 菅原道真をまつった天満宮や、平将門が祭神の神田明神のように、靖国も歴史ある神社として国民の間に根付いていけばいいでしょう。政治的な騒動に巻き込まず、静かな鎮魂の場として歳月を重ねることがふさわしいのです。(聞き手・編集委員 駒野剛)
     ◇
 みつちしゅうへい 1949年生まれ。経済企画庁を経て2000年から14年まで東京理科大理学部教授。著書に「靖国問題の原点」など。

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(資料2)朝日新聞、5月27日朝刊記事。
■「霞が関は『物言えば唇寒し』の状況」
 元自治省課長で鳥取県知事や、民主党政権時代の2010〜11年に総務相を務めた片山善博・早稲田大教授に聞いた。
     ◇
 前川氏の会見はニュースで見た。供給過剰感がある獣医師を増やす特区は無理筋だと私も思っていた。卒業生は全国に散らばるので全国に影響が出る。「赤信号のところを青信号だと考えろ」などの部分は「その通りかと思う」と腑(ふ)に落ちた。冷静にポイントを突いて説明していたと思う。辞めざるをえなかった逆恨みという指摘はあたらない。
 辞めてから言うなという批判がある。しかし、今の霞が関は「物言えば唇寒し」の状況。「安倍1強」で自民党内でも異論が出ないし、大臣が物言う役人を守ることもなくなった。
 14年の内閣人事局発足以降、この風潮が強まっている。役人にとって人事は一番大事。北朝鮮の「最高尊厳」、中国の「核心」。そして今回の「官邸の最高レベル」。似てきてしまったのかなと思います。
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2017年05月27日

街道論 G『街道をゆく』のベスト作品

『街道をゆく』シリーズには、長編・中編・短編を併せて全体で七十四編ある(『司馬遼太郎の風景@』巻末の一覧では七十二編としているが、私は二冊ずつある『南蛮のみち』『愛蘭土紀行』は共に各二編と数えるのが適当と思うので、七十四編とする)。
 その中で、ベスト・テンといったら、どうなるか。ともかく駄作・凡作は少ない(ほとんどない、と言っていい)ので、そこから選ぶのはかなり難しい。それを敢えて私見で行ってみる。順不同(発表順)にベスト・テンを列挙すれば、次の通りになろうか。
 なお、本の巻名を表わすときは『』で括り、作品の編名を表わすときはすべて「」で括ることにするのが正しいが、ここでは作品の形態(長・中・短編)の区別を表わすために、一冊で一作品の長篇は『』で括って並べることにする。(ここで便宜的に、一冊の中に三編以上収録されている作品群を短編とし、二作品で一冊となっているものを中編として区別した。)

(1)「湖西のみち」(短編)
(6)『韓のくに紀行』
(17)『モンゴル紀行』
(45)『南蛮のみちT』
(47)「近江散歩」(中編)
(57)『愛蘭土紀行T』
(64)『オランダ紀行』
(69)『オホーツク街道』
(71)『台湾紀行』
(72)『北のまほろば』

 見られるとおり、国内編が四編、海外編が六編である。全体では国内編が六十編、海外編が十四編だから、海外編の秀作比率はかなり高いということになる。それはある意味、当然のことであり、それだけ司馬の意気込みが高かったということを証明しているのだろう。
 今度は、国内編だけでベスト・20を選定すると、次のようになる。

(1)「湖西のみち」(短編)
(7)「陸奥のみち」(短編)
(18)『沖縄・先島への道』
(20)「砂鉄のみち」(短編)
(21)「熊野・古座街道」(短編)
(24)「種子島みち」(短編)
(25)「潟のみち」(短編)
(31)『肥前の諸街道』
(33)『壱岐・対馬の道』
(37)『叡山の諸道』
(38)『島原・天草の諸道』
(39)『越前の諸道』
(47)「近江散歩」(中編)
(51)「仙台・石巻」(中編)
(52)「因幡・伯耆のみち」(中編)
(55)「秋田県散歩」(中編)
(60)「奥州白河・会津のみち」(中編)
(62)「大徳寺散歩」(中編)
(69)『オホーツク街道』
(72)『北のまほろば』

 以上を総合すると、次のようなベスト30作品リストになろうか。

(1)「湖西のみち」
(6)『韓のくに紀行』
(7)「陸奥のみち」
(17)『モンゴル紀行』
(18)『沖縄・先島への道』
(20)「砂鉄のみち」
(21)「熊野・古座街道」
(24)「種子島みち」
(25)「潟のみち」
(31)『肥前の諸街道』
(33)『壱岐・対馬の道』
(37)『叡山の諸道』
(38)『島原・天草の諸道』
(39)『越前の諸道』
(40)『中国・江南のみち』
(45)『南蛮のみちT』
(47)「近江散歩」
(51)「仙台・石巻」
(52)「因幡・伯耆のみち」
(54)『耽羅紀行』
(55)「秋田県散歩」
(57)『愛蘭土紀行T』
(58)『愛蘭土紀行U』
(61)「奥州白河・会津のみち」
(63)「大徳寺散歩」
(65)『オランダ紀行』
(69)『オホーツク街道』
(71)『台湾紀行』
(72)『北のまほろば』

 この中で、(31)『肥前の諸街道』は秀作とは言えないが、画期の作品であるので選んだ。また、シリーズ最高の傑作はと言えば、これは別格で『北のまほろば』ということになる。これには異論はあるまいと思う。

 ここから言えることは…
・総じて、海外編には秀作が多い。(前述)
・長中編に傑作が多い。これはやはり、司馬の長編作家的な本領が発揮されているのだろう。もちろん短編にも佳作・秀作はあるが、このシリーズの意味からいって、やはり客観的には長篇になればなるほど、司馬の作家的力量が発揮されるという傾向があるのは否定し得ないことである。
・歴史紀行プロパーの作品には傑作には乏しい。それはやはり司馬の発展過程史からみて、もう出し尽くした後だからである。それに対して、司馬がこれまでの小説作品の上ではあまり取り組んでこなかった古代史、及び近代史の歴史紀行は新鮮味がある。
・祖形論の視点での作品には傑作・秀作が多い。敷衍して、宗教論、朝鮮論等の分野の作にも秀作が多いという印象がある。
・地域的には、辺境・異境の紀行により魅力の豊かな作品が多いという気がする。
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2017年05月26日

街道論 F『街道をゆく』時期区分の意味

 先のように時期区分をする理由は何よりも前期・後期を分けることによって、その隔絶した相違点を明瞭ならしめることにある。
 前期は、分析・革新・未来・祖形…の直線的な追及・追求にその特徴がある。
 後期は、総合・保守・懐旧・伝統…の曲線的で逍遥的な低回にその特徴がある。

 幾つかの前・後期の違いの特徴がある。

 第一に、前期においてはほとんど観光的な名所というところはなかった。意識的に避けられていた。しかし後期では、ある意味、観光名所とも思しいような名所・旧蹟・行事の記述が多くなる。例えば、「近江散歩」でもそうであったが、次の「奈良散歩」の修二会見学記事の詳細で綿密な記述を読んで、私は驚きを禁じ得なかった。かつての司馬だったら、こんな懐旧的な記述をこれほど能くし得ることはなかっただろうが、後期の司馬は徹底的に故郷懐旧的であり伝統回帰的であり聖所保存的であり列聖顕彰的であった。
 司馬はいつも徹底的に、小気味よいまでに、合理と共和というか、反逆的な人間列伝を評価してきたはずだった。戦国の斎藤道三、織田信長、明智光秀(『国盗り物語』)、石田三成(『関ヶ原』)等、また幕末の土方歳三(『燃えよ剣』)、坂本龍馬(『竜馬がゆく』)、河井継之助(『峠』)江藤新平(『歳月』)、西郷隆盛(『翔ぶが如く』)等、…。
 ところがここでは、司馬はあくまで伝統保守の立場に立ち、かりにも旧習墨守の謗りをも否もうとはしないかのようである。実際に、これ以後も、嵯峨、飛騨、阿波、白河、会津、赤坂、大徳寺、中津、宇佐、本所、深川、神田、本郷、等の伝統的な色彩を濃く保持する場所・界隈を「散歩」することになる。そこにはかつての求心的で問題解析的な姿勢はなくなっており、遠心的で遠景崇拝的な心情のみが強く表れている。

 第二、叙述の姿について見ると、何よりも言えることは、『街道をゆく』後期の作品群における、いかにもしっとりとした筆致である。後期の作品には凡作がなく佳作が多い。ある意味、司馬の本領がこれほど発揮された作品群というのは他に乏しいかも知れない。それは司馬の初期の伝奇的な小説の時代を想わせる。
 かつて丸谷才一は、司馬における「前近代的」な要素(例えば『梟の城』での)に触れて、こう言っていたことがある。
《前近代の魅力をこれだけ書ける司馬さんは、前近代に対する憧れを濃密に持っていたはずだと思うんですが、それを捨ててしまったんじゃないか。ここのところともう少しつき合っていたら、欲をいえばキリがないですが、もう一回りもニ回りも大きな存在になっていたとおもいますね。》(井上ひさしとの対談「司馬作品の魅力を語る」、『文藝春秋』平成八年四月号)》
 つまり、言いたいことは、前期は鋭く、後期はまろやか、であるとして、私は前期の求心的で真摯で解明的な姿勢に共感するのだが、一方で、後期の低回的で、ゆったりと濃密な叙述にも魅力を覚えざるを得ないということなのである。

 第三に、ちょっと異様な言葉かも知れないが、私はこれに「列聖」という言葉を選びたい。
 勿論、この「列聖」という語は、本来はカトリックの用語であって濫りに用いるべきものではないが、ここではいわば司馬自身が法王になったかの如く、或いは日本的な意味での天皇になったが如くに、国を誉め、人を誉め、風土(国)を誉めようとするかのようなのである。
 後期における司馬の諸街道への旅は、いわば彼が俯瞰的で天皇的な視点での立場を維持しようとしているかの如くである。例えば、私は、「檮原街道(脱藩のみち)」の中での次の情景に惑耳驚心したのだった。
 それは彼がそこでの千枚田=棚田を見て、感動・感銘して、こう言う場面だった。
《すべては黄昏の光と翳がつくっている色調なのだが、光悦の金蒔絵を見るように豪華だった。
「この田、見ました」
 私は、たれにお礼を言うという相手のないまま、町長さんに頭をさげた。千年来、檮原の山々にきざみつけてきた先人の営みは、この田が証している。》
 ここで司馬は、見る人、見神者であり、或は自己認識としては天皇の国見のような全能者である自分を想定したかもしれない。おおらかな自己肯定であり、自己見神というべきかもしれないが、これは司馬としては曖昧境、法華・念仏三昧境でもある境涯だった。
 そこに現れた意識は、司馬が、最極天では高貴な天皇でもあり、最低地では哀れな持滓でもあるような表裏・二面の現身であった。時に全能・最高の神になるかのように、時に無能・最低の神であるかのように、自在な表現を得ている存在であった。
 ここで司馬は、いわば自身を神として考えたのだった。
posted by tabatabunsi at 00:48| Comment(0) | 『街道をゆく』断章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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