2017年05月22日

街道論 B『街道をゆく』の主題

 新しい『街道をゆく』の連載には、前著『歴史を紀行する』の続編としての性格はあり得なかったということを前回の終わりに私は述べた。その論証として、改めてこの畢生のシリーズの最初編である「湖西のみち」の冒頭部(シリーズ全体のプロローグでもある)を引いてみよう。なお、この引用の最後の(@9)は、ワイド版・第一篇(「湖西のみち」)の9ページであることを示している。

《「近江」
 というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。京や大和がモダン墓地のようなコンクリートの風景にコチコチに固められつつあるいま、近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖までが粉雪のふるさとであるよう、においをのこしている。
「近江からはじめましょう」
 というと、編集部のH氏は微笑した。お好きなように、という合図らしい。
 はるかな上代、大和盆地に権力が成立したころ、その大和圏の視力は関東の霞ケ浦までは見えなかったのか、東国といえば岐阜県からせいぜい静岡県ぐらいまでの範囲であった。岐阜県は、美濃という。ひろびろとした野が大和からみた印象だったのであろう。》(@9)

 この文章について、言いたいことは幾つかある。
 第一に、既に述べたが、「近江」という国名だけで詩を感ずるという司馬の言霊的資質である。これについては別項目で触れることにする。
 第二に、この出だしは司馬にとっての小説であるということである。すでに司馬にとっては戦国も幕末も、小説の主題としてはすべて書ききっていた。だから司馬は他のジャンルに転換し、挑戦した。しかし司馬はやはりそれを自分にとっての小説として考えていたように見える。逆に言えば、司馬にとっての小説とはいわば何をどう書いてもいい、説話体の物語だった。例えば『関ヶ原』の最初を彼はこう書き出している。
《いま、憶いだしている。
 筆者は少年のころ、近江国のその寺に行った記憶がある。夏のあついころで、きのうのようにおもいだせる。何寺であったかは忘れた。》
 その後、司馬はヘンリー・ミラーの「いま君はなにか思っている。その思いついたところから書きだすとよい」という言葉を引き、「そういうぐあいに、話をすすめよう」と言って、そこから秀吉と石田三成の物語、《関ヶ原という、とほうもない人間喜劇もしくは「悲劇」》を語り出している。これが司馬の説話の方法である。もちろん、その「思いつき」の前に深刻な準備と取材と思索の積み重ねがあるのは言うまでもないが。
 だから、この「湖西のみち」はまた司馬にとって一つの短編小説なのであった。
 第三に、ここには『街道をゆく』の新しい主題が明確に語られている。それはそれまでの「歴史紀行」を中心とする司馬の物語世界では限定されていたために登場することの殆どなかった古代史への関心・言及である。
『街道をゆく』連載予告(『週刊朝日』昭和45年12月25日号)にはこう告げられていた。
《道といっても大幹線には古今、日々文化が往来していて、日々擦れっからしている。その点、枝道には日本のモトのモトのような種子が吹き溜っていて、日本人のなまな体臭を嗅げるかもしれない。
 そういうことで、野であれ里であれ、吹き溜りをさがして、あちこち歩いてみたいとおもう。》
 またこの「湖西のみち」のその後でも、「気分だけはことさらにそのころの大和人の距離感覚を心象のなかに押しこんで、湖西の道を歩いてみたい」(@10)とか、「この連載は、道を歩きながらひょっとして日本人の祖形のようなものが嗅げるならばというかぼそい期待をもちながらあるいている」(@23)とも書いている。この「祖形(原型)探索」がこのシリーズの眼目となる新機軸・新主題だった。
 もっともこの古代史への関心は、実は急に現れてきたといったものではない。司馬の日本史研究の中でそれは深い関心事だったに違いないのだが、小説主題として現われるのは限定的だった。初期の短編には「八咫烏」(神話時代)「朱盗」(奈良時代)「外法仏」「牛黄加持」(平安時代)という異色の短編佳作があり、長編では『項羽と劉邦』(中国・秦漢時代)『空海の風景』『義経』(平安時代)等もあるが、司馬の歴史世界の中心は圧倒的に戦国・幕末維新であった。
 この「祖形探索」は当然、「日本民族はどこからきたのであろう」という想像を呼び起こす。遥かな原始時代はともかくとして、「可視的な過去」を「遺跡」によって探れば「日本人の血液のなかの有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきたことはまぎれもないことである」と司馬は言う(@20)。この新しい要素を取り入れることによって、このシリーズは、それまでの「歴史紀行」とは異なった新生面を啓くことになったのである。それが「原始・古代」への時間的遡及と「異域・辺境」への空間的拡大とを伴うものだったのは必然的である。
 前著の『歴史を紀行する』ではその歴史時代への視野は、ほとんど戦国期以降に限られていたために、この朝鮮渡来人への関心は、僅かに「近江商人を創った血の秘密〔滋賀〕」と「好いても惚れぬ″権力の貸座敷〔京都〕」の二編で扱われているのみである。いずれも畿内に属する地域である。
 第四に、ここには「原郷憧憬」ともいうべき司馬の内心の声が吐露されているということである。ある意味では、このことがこの長大なシリーズの持続の根本動機となった要素でもあっただろう。その「ふるさと」を願求する心情は同時に「モダン墓地」状態に荒廃した現代社会への辛辣で深刻な批判として鬱積し爆発してこざるを得ないものだった。
 要するに、『街道をゆく』を支える主題は従来の「歴史紀行」に加えて「祖型探索」「原郷憧憬」という動機から発していた。しかも、各編の内容を判断吟味する時に忘れてはならないのは、この「歴史紀行」部分は安定した土台部分を形成していることは間違いないのだが、それは司馬にとってはすべて殆ど既知事項であり、また司馬作品を読み込んできた読者としてもあまり新味はないということが多いのである。このシリーズの眼目があとの二つの動機、「祖型探索」「原郷憧憬」にあることは繰り返し強調しておく必要があろう。
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2017年05月21日

街道論 ➁『街道をゆく』の構想

 まず、このシリーズの構想はどういう風に立てられたのか。
 須田剋太画伯の『原画集 街道をゆく』(昭和五十六〔一九八一〕年七月刊)所収の「出離といえるような」という文章の中で、司馬はこう書いている。
《私が、週刊朝日に「街道をゆく」という連載を書くことになったのは、さほどの動機もなく、もののはずみのようなものであった。一年ほどでやめるつもりでひきうけたのだが、もはや業のようなものになり、十年もつづき、なおも書いている。》
 ここでは連載開始の偶然性、無動機性が過度に強調されているが、勿論そんなことはあり得ない。司馬という人は、ものの弾みで文章を書くという仕事を始めるタイプの作家ではない。その過程があたかも自然偶然の過程であるように見えても、いつも目的は意識され、効果が計算されている。
 ところでこの連載の編集担当者だった橋本申一氏の連載開始の経緯についての談話がある。(『司馬遼太郎の風景@』日本放送出版協会、一九九七年十月刊)少し長いが、私にとって興味深い情報が込められているので、引いてみる。
《「司馬さん、あのころ、たくさん書いてましてね。新聞も週刊誌も同時に五、六本は書かれていたと思います。そこへ『週刊朝日』として割り込むわけです。とにかく司馬さんに書いてもらうようにせい、と言われて、それじゃどうしたらいいかなと思いましてね。小説だったらまたこれからものすごい調べにゃならんことも出てくる。それはとても無理だ。そこで、随筆風のものだったらと思って、『街道をゆく』という題にして、司馬さんのところへ持っていったんです。まずは断られました。司馬さんは、毎週旅行せにゃならんのか、と思われたんですね。それはちょっと無理だ、と。そこで、いや違うんだ、一か所、例えば東海道なら東海道に一回行って、それを半年続けて書いてもらってもかまわないんだ、と申しました。それで、やっと引き受けていただいたんです」》
 依頼の経過はともかく、この題名だけは司馬自身の発想だと思っていたので、それが編集者の提案だったとは意外だった。その前に『歴史を紀行する』という連載を司馬は月刊誌に連載していた(『文藝春秋』昭和四十三年一月号から十二月号まで)。編集者的には、この著書の前例が強く印象されただろうと推測される。
 しかし司馬は編集者の依頼をただ漫然と受けて著作する人ではない。彼には常に自身の一定の計画、目論み、考想というものがあって仕事を進めてきている。
 実は司馬の著作歴の中で、この昭和四十三年というのは特異な年なのである。この前年まで、司馬はもちろん時にエッセイ等を発表することはあったが、その他の連載や対談等はほとんどなかった。ただひたすら小説作品に集中していた。『歴史を紀行する』の年間通しての連載というのは特筆すべき事態だった。
 司馬は自身の著作にきわめて意識的な人で、昭和三十四年以後の年譜を見るとそれがはっきりする。この年以後の短編は「大坂侍」から最後の「木曜島の夜会」(昭和五十一年)まで九十九作を数えるが、それらはほとんど昭和三十六年から同四十年までに集中している。いわばこれが司馬の「短編集中」時代である。
 次いで「長篇爆発」時代が来る。『竜馬がゆく』(昭和三十七年)から始まる長篇の名作・大作の怒涛のような集中があり、それは昭和四十二・三年(司馬の四十四・五歳時)をピークとして(この年間には最多で同時に八編の長篇連載を併行している)、同四十七年(『坂の上の雲』の連載終了)をもってほぼ沈静する(もちろん「沈静」とは言っても、司馬の水準でのことで、以後も『翔ぶが如く』『空海の風景』『菜の花の沖』等の傑作群が続くのだが。…)。
 まさにこういう「集中」は、司馬の意識的操作以外のものではない。田辺聖子は司馬からかつて短編は腕力勝負だから四十歳までだと言われたと記しているし、司馬自身がかつて五十代(急逝二年前)の開高健に小説を書くのを「やめればいいのに」と言ったということを書いている(「開高健への弔辞」平成二年一月)。確かに短編小説という結晶を搾り出すのにも、また長篇小説の構築にも心身の余程の充実と精力とがなければなるまい。この年齢の問題は誰しもにあり、司馬にも不可避だった。しかし同時に、この意識的な短編期から長編期への移行、その終焉は、単にどの作家にも訪れる加齢の問題だけではなく(明らかにその要素は否定できないが)、むしろ司馬の作品動機としての問題が尽きてきたことを意味しているのではないだろうか。
『梟の城』以来、戦国・幕末維新という日本史における二つの「湧きかえる時代」を描き尽してきた司馬は、普通の時代・歴史小説家とは異なり、小説のための小説(奇妙な表現だが)を書く人ではなかった。彼には探索・究明したい主題があり、小説はいわばその手段だった。だから彼は、その意味では終生、小説を描き続けた生粋の時代小説家である池波正太郎や藤沢周平とは全く別の類型に属する作家だった。『近代説話』同人であった出発点から彼は本当の意味の小説家ではなく、ジャーナリスト・批評家・思想家を兼ねた存在だったと言えるかも知れない(これは褒貶を別としている。むしろ人によっては司馬よりも藤沢や山田風太郎を圧倒的に高く評価するだろう。ある意味、司馬には玄人の熱烈な愛読者はより少ないのかも知れない)。
 そういう司馬が、この時期から『歴史を紀行する』という本来の小説家としては枠外の仕事をし、さらに続いて『街道をゆく』に取り組み始めたのには、消極・積極の両様の意味があると私は考える。明らかにそれは小説を書く仕事を減らしたから出来たのであるが、それは単に楽をしたかったからというのではない。司馬は資料を読み調べて考え書く仕事が大好きな人間であり、旅行にしろ趣味にしろ自由な余暇を暢気に過ごせる人ではなかった。ちょうどまた司馬の主題探索は最早、小説という形式では遂行できない段階になっていたということである。これを証明するのは、司馬が『街道をゆく』シリーズのなかの重要な長編である『モンゴル紀行』の準備のための海外旅行のため、約三か月という長期休載をする時の「ちょっと一服の弁」(『週刊朝日』一九七三年七月二十七日号)である。彼はこう書いている。
《「街道をゆく」というのが、こんなに長く続こうとははじめ思っていなかった。
 書きはじめたころ、私は仕事を減らすことにすこしばかり成功し、週に三日ばかりひまができたので、しばしば旅行をしようという気になった。それを自分に強制するかたちで、この連載をひきうけた。最初から画家の須田剋太氏と編集部の橋本申一氏が仲間で、じつに楽しかった。(中略)
 最初、せいぜい三十回ほどで終るだろうと思ったこの「街道をゆく」が、ついつい続いてしまったのは、須田さんの絵とその人柄にひきずられてしまったからである。》
 しかしこの旅行は自在な旅ではない。またその記録である『街道をゆく』も自在な流露感のある、いわゆる滋味掬すべき紀行文ではない。これは彼のあらゆる小説作品と同じく、主題意識を明確に持っての現場取材の旅の記録であると言っていい。
 その主題は、当然、前著の『歴史を紀行する』とは全く異なったものであるほかはない。前著は「歴史と人間と風土」の交叉するところを選んでいた。特に「その風土性に一様性が濃く、傾斜がつよく、その傾斜が日本歴史につきささり、なんらかの影響を歴史の背骨にあたえたところの土地」が選ばれた。土佐、長州、薩摩、三河、などである。同じような趣旨での連載を司馬がまた改めて書こうとする筈がない。それでは、『街道をゆく』の新機軸の主題とは何だったのだろうか。
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2017年05月20日

俗情論 ➁庇護と監視

 今日の天声人語の話題は「共謀罪」で、知識人たちの法案への不安、危惧、疑念が語られている(資料)。結尾の文章にこうある。
《日本ペンクラブの反対集会で作家の森絵都さんが語っていた。「日本人の心のなかには、何か起こったときには国が守ってくれるという依存や期待があるのではないか。そこを国につけ込まれるのでは」。そして庇護(ひご)と監視は必ず一緒に差し出されると》
 私にもこの法案への疑念はある。というより、正確に言えば、法案の中味そのものよりもそれを推進している安倍首相なる人物へのいかがわしさの感じである。
 最近の世界では、ロシアのプーチン、アメリカのトランプをはじめ、フィリピンのドゥテルテとか、シリアのアサドとか、何か今が近代ではなく戦国乱世ではないかと思わせるようなヤクザめいた指導者たちが輩出していて、ひょっとしてこれはヴァーチャル・ワールドではないのかという錯視感さえ覚えるのだが、これがグローバル化した世界の行き着いた果てのグロテスクな戯画であるのかも知れない。
 それはさておき、私はこの森絵都さんの言葉にある「日本人の心」に注目したい。こういう心性が「日本人の心」の特徴・特質であるのかも、私には分からないが、いざという時に国が守ってくれるという「依存や期待」は国民としてごく自然のものではないのか(いやむしろ、日本人にはそれさえも薄いのかもしれないが)。そして現実社会の構造において「庇護と監視」が一体のものというのもごく当然のことなのではないか。
 もちろん依存と庇護の期待をしつつ、他方で監視や干渉に反発したり抵抗したりする心情や行動はあり得る。それを昇華すれば哲学的な存在理由さえ持ち得るのかもしれない。それはいいとして、ただ私にとって不可解なのは、こういう論理が批判の言説として現実的に有効であり有意味であると考える感覚なのである。これのどこに生活人すなわち庶民の心性との回路が作り得るのだろうか。

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(資料)
2017年5月20日(天声人語)「共謀罪」衆院委で可決
《心のなかを裁く法律ではないか。不安が消えたとはとても言えない。犯罪を計画の段階から処罰する「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ法改正案をめぐり、あちこちで発せられてきた言葉がある▼共謀罪のある社会は、どこまで監視の目を広げるのか。作家の平野啓一郎さんの危惧は現代的である。「フェイスブックなどのSNSが発達した今、『友達の友達』は時にとんでもないところまでつながっていく。犯罪を漠然としたリスクとして『予防』しようとすると、捜査機関の監視は歯止めがなくなる」▼102歳の太田まささんは18歳のころ、共産党の機関紙を読んだことを理由に警察に拘束された。「時代を逆戻りさせちゃならん。足さえ動けば、反対を訴えるのに」。共謀罪の目的は組織犯罪の未然防止だとされるが、市民の活動がゆがめられ解釈されるおそれはないか▼「政府は言う、普通の人には関係ない しかし判断するのは権力を持つ者、警察だ ダメと言われたらそれでアウト」と歌手の佐野元春さんがフェイスブックに書いた。一般の人は対象ではないという政府答弁への疑念である▼日本ペンクラブの反対集会で作家の森絵都さんが語っていた。「日本人の心のなかには、何か起こったときには国が守ってくれるという依存や期待があるのではないか。そこを国につけ込まれるのでは」。そして庇護(ひご)と監視は必ず一緒に差し出されると▼本当にこのまま通していいのか。衆院本会議にのぞむ議員一人ひとりに問いたい。》
posted by tabatabunsi at 19:34| Comment(0) | 俗情の日本人論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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