2017年05月21日

街道論 ➁『街道をゆく』の構想

 まず、このシリーズの構想はどういう風に立てられたのか。
 須田剋太画伯の『原画集 街道をゆく』(昭和五十六〔一九八一〕年七月刊)所収の「出離といえるような」という文章の中で、司馬はこう書いている。
《私が、週刊朝日に「街道をゆく」という連載を書くことになったのは、さほどの動機もなく、もののはずみのようなものであった。一年ほどでやめるつもりでひきうけたのだが、もはや業のようなものになり、十年もつづき、なおも書いている。》
 ここでは連載開始の偶然性、無動機性が過度に強調されているが、勿論そんなことはあり得ない。司馬という人は、ものの弾みで文章を書くという仕事を始めるタイプの作家ではない。その過程があたかも自然偶然の過程であるように見えても、いつも目的は意識され、効果が計算されている。
 ところでこの連載の編集担当者だった橋本申一氏の連載開始の経緯についての談話がある。(『司馬遼太郎の風景@』日本放送出版協会、一九九七年十月刊)少し長いが、私にとって興味深い情報が込められているので、引いてみる。
《「司馬さん、あのころ、たくさん書いてましてね。新聞も週刊誌も同時に五、六本は書かれていたと思います。そこへ『週刊朝日』として割り込むわけです。とにかく司馬さんに書いてもらうようにせい、と言われて、それじゃどうしたらいいかなと思いましてね。小説だったらまたこれからものすごい調べにゃならんことも出てくる。それはとても無理だ。そこで、随筆風のものだったらと思って、『街道をゆく』という題にして、司馬さんのところへ持っていったんです。まずは断られました。司馬さんは、毎週旅行せにゃならんのか、と思われたんですね。それはちょっと無理だ、と。そこで、いや違うんだ、一か所、例えば東海道なら東海道に一回行って、それを半年続けて書いてもらってもかまわないんだ、と申しました。それで、やっと引き受けていただいたんです」》
 依頼の経過はともかく、この題名だけは司馬自身の発想だと思っていたので、それが編集者の提案だったとは意外だった。その前に『歴史を紀行する』という連載を司馬は月刊誌に連載していた(『文藝春秋』昭和四十三年一月号から十二月号まで)。編集者的には、この著書の前例が強く印象されただろうと推測される。
 しかし司馬は編集者の依頼をただ漫然と受けて著作する人ではない。彼には常に自身の一定の計画、目論み、考想というものがあって仕事を進めてきている。
 実は司馬の著作歴の中で、この昭和四十三年というのは特異な年なのである。この前年まで、司馬はもちろん時にエッセイ等を発表することはあったが、その他の連載や対談等はほとんどなかった。ただひたすら小説作品に集中していた。『歴史を紀行する』の年間通しての連載というのは特筆すべき事態だった。
 司馬は自身の著作にきわめて意識的な人で、昭和三十四年以後の年譜を見るとそれがはっきりする。この年以後の短編は「大坂侍」から最後の「木曜島の夜会」(昭和五十一年)まで九十九作を数えるが、それらはほとんど昭和三十六年から同四十年までに集中している。いわばこれが司馬の「短編集中」時代である。
 次いで「長篇爆発」時代が来る。『竜馬がゆく』(昭和三十七年)から始まる長篇の名作・大作の怒涛のような集中があり、それは昭和四十二・三年(司馬の四十四・五歳時)をピークとして(この年間には最多で同時に八編の長篇連載を併行している)、同四十七年(『坂の上の雲』の連載終了)をもってほぼ沈静する(もちろん「沈静」とは言っても、司馬の水準でのことで、以後も『翔ぶが如く』『空海の風景』『菜の花の沖』等の傑作群が続くのだが。…)。
 まさにこういう「集中」は、司馬の意識的操作以外のものではない。田辺聖子は司馬からかつて短編は腕力勝負だから四十歳までだと言われたと記しているし、司馬自身がかつて五十代(急逝二年前)の開高健に小説を書くのを「やめればいいのに」と言ったということを書いている(「開高健への弔辞」平成二年一月)。確かに短編小説という結晶を搾り出すのにも、また長篇小説の構築にも心身の余程の充実と精力とがなければなるまい。この年齢の問題は誰しもにあり、司馬にも不可避だった。しかし同時に、この意識的な短編期から長編期への移行、その終焉は、単にどの作家にも訪れる加齢の問題だけではなく(明らかにその要素は否定できないが)、むしろ司馬の作品動機としての問題が尽きてきたことを意味しているのではないだろうか。
『梟の城』以来、戦国・幕末維新という日本史における二つの「湧きかえる時代」を描き尽してきた司馬は、普通の時代・歴史小説家とは異なり、小説のための小説(奇妙な表現だが)を書く人ではなかった。彼には探索・究明したい主題があり、小説はいわばその手段だった。だから彼は、その意味では終生、小説を描き続けた生粋の時代小説家である池波正太郎や藤沢周平とは全く別の類型に属する作家だった。『近代説話』同人であった出発点から彼は本当の意味の小説家ではなく、ジャーナリスト・批評家・思想家を兼ねた存在だったと言えるかも知れない(これは褒貶を別としている。むしろ人によっては司馬よりも藤沢や山田風太郎を圧倒的に高く評価するだろう。ある意味、司馬には玄人の熱烈な愛読者はより少ないのかも知れない)。
 そういう司馬が、この時期から『歴史を紀行する』という本来の小説家としては枠外の仕事をし、さらに続いて『街道をゆく』に取り組み始めたのには、消極・積極の両様の意味があると私は考える。明らかにそれは小説を書く仕事を減らしたから出来たのであるが、それは単に楽をしたかったからというのではない。司馬は資料を読み調べて考え書く仕事が大好きな人間であり、旅行にしろ趣味にしろ自由な余暇を暢気に過ごせる人ではなかった。ちょうどまた司馬の主題探索は最早、小説という形式では遂行できない段階になっていたということである。これを証明するのは、司馬が『街道をゆく』シリーズのなかの重要な長編である『モンゴル紀行』の準備のための海外旅行のため、約三か月という長期休載をする時の「ちょっと一服の弁」(『週刊朝日』一九七三年七月二十七日号)である。彼はこう書いている。
《「街道をゆく」というのが、こんなに長く続こうとははじめ思っていなかった。
 書きはじめたころ、私は仕事を減らすことにすこしばかり成功し、週に三日ばかりひまができたので、しばしば旅行をしようという気になった。それを自分に強制するかたちで、この連載をひきうけた。最初から画家の須田剋太氏と編集部の橋本申一氏が仲間で、じつに楽しかった。(中略)
 最初、せいぜい三十回ほどで終るだろうと思ったこの「街道をゆく」が、ついつい続いてしまったのは、須田さんの絵とその人柄にひきずられてしまったからである。》
 しかしこの旅行は自在な旅ではない。またその記録である『街道をゆく』も自在な流露感のある、いわゆる滋味掬すべき紀行文ではない。これは彼のあらゆる小説作品と同じく、主題意識を明確に持っての現場取材の旅の記録であると言っていい。
 その主題は、当然、前著の『歴史を紀行する』とは全く異なったものであるほかはない。前著は「歴史と人間と風土」の交叉するところを選んでいた。特に「その風土性に一様性が濃く、傾斜がつよく、その傾斜が日本歴史につきささり、なんらかの影響を歴史の背骨にあたえたところの土地」が選ばれた。土佐、長州、薩摩、三河、などである。同じような趣旨での連載を司馬がまた改めて書こうとする筈がない。それでは、『街道をゆく』の新機軸の主題とは何だったのだろうか。
posted by tabatabunsi at 19:32| Comment(0) | 『街道をゆく』断章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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