2016年04月25日

『実録』メモ F『紀』と『実録』の違い

 改めて『昭和天皇実録』「第一」の内容について整理・要約してみる。
 箱の帯の背には、「御誕生」と銘打たれ、明治34年−大正2年〔12歳〕までが扱った対象年代である。帯の表には次のように記されている。
《かつてない激動の時代の予感の中、「裕仁」と名づけられた。
明治国家を築いた人々に囲まれ成長される。
明治天皇の崩御と、師・乃木希典の衝撃的な死。
戦争と平和、人間と国家の実像を描ききり、
明治から昭和という、未曽有の「歴史」そのものを目撃する19冊。いよいよ刊行開始!》
 この間、日露戦争があり、明治天皇の崩御と学習院長乃木希典の自刃があった。しかしこれらについて、迪宮裕仁の動静は正確に伝えられているが、その内面・心情と人間的な実像について、よく造型されているとはとても言えない。それは同時に昭和天皇に関する評伝(伝記)を読んで補わなければならないのである。
 私自身は、前にも述べたように、それについて不満を感じない。他の評伝や資料を読み調べる際のいわばインデックスとして活用できるからであり、自分の感想や考えや想像を自由に駆使する余地が大いにあるのがかえってありがたい気がするからである。しかし、これを歴史書として読むことはできないのは、そこに編纂者の歴史観が一貫していないからである。

 なぜ、『昭和天皇実録』が歴史書として落第なのか。言い換えれば、なぜ、それは歴史を意図しない設定での編纂作業になったのか、という疑問がある。
 これには様々の答えがあり得る、と思う。
 その前に、『明治天皇紀』の編纂思想を考えておこう。最終の第12巻の末尾には、編集方針を明らかにした「後記」が付せられている。その一部を引く。
《初め明治天皇紀は、専ら明治天皇の盛徳事蹟を主として編録し、国史の撰修とはおのずからその主旨を異にするものであるという方針をとり、大約五箇年をもって完成することとした。しかるに大正七年十月に至り、御紀の内容は広く天皇の治績に相わたるべきであるとして編修資料の採録範囲を拡大し、今後十箇年をもって編成を期することに改め、ついで九年五月御紀執筆の時期を迎えるに及んで、上奏して編修に関する諸要綱を定め、御伝記であると同時に国史としての明治天皇紀を編修する方針を明確にするに至った。》
 つまり『明治天皇紀』は伝記・国史の両方の要請に応えるものとして編纂された。これに対して、『昭和天皇実録』は事蹟・動静の編年体記録を主旨としている。

 この差異を生みだした根本契機は何か。
 森暢平(成城大学准教授)はこう指摘している。
《天皇紀と天皇実録はその性格が違う。簡単に言えば、天皇紀は熱く物語を語る伝記であるのに対し、実録は天皇に関する公式でクールな編年体記録である。》
 そして『明治天皇紀』には「世界に冠たる明治天皇」という筋の通った天皇観が前提にあったのに、『昭和天皇実録』は確個たる方針のないまま編修が始まったとしている。
 それでは、こういう違いをもたらしたより根本の理由は何か。
 それは明治と昭和という二つの時代の違いである。端的には上昇と下降との差異である。
『日蓮文集』の中に、こういう文章がある。
《高山に登る者は必下り、我人を軽めば、還て我身人に軽易せられん。形状端厳そそしれば、醜陋の報を得。人の衣服飲食をうばへば、必餓鬼となる。持戒尊貴を笑へば、貧賤の家に生ず。正法の家をそしれば、邪見の家に生ず。善戒を笑へば、国土の民となり王難に値ふ。是は常の因果の定れる法也。》(「佐渡御書」)
 これは日蓮が自身の因果はこの「常の因果」とは隔絶する所以を明かしている段落の文だが、その文脈から切り離して、私はこの文章が気に入っている。それは「高山に登る者は必下り」という必然の理法を道破しているからである。
 明治は「坂の上の雲」を目指して登って行った時代だった。そこには必ずしも一朶の白い雲だけではなく、陰鬱な黒い雲も望見されていたのだが、歴史が過ぎ去ってみれば(日清・日露の戦争が勝利に終わった後の時点から回顧してみれば)、ひとえに明るい未来を目指して上昇し続けた時代相に映じるだろう。それはともかくも「熱く物語を語る」に値し、「世界に冠たる明治天皇」という呼称は疑問の余地なく明快であった。
 たとえば『明治天皇紀』「第十二」(最終巻)の815ページ、天皇崩御の模様の叙述が縷々と述べられている。その一節。
《午後一時十分元帥公爵山縣有朋・内閣総理大臣侯爵西園寺公望・枢密顧問官侯爵松方正義・内大臣公爵徳大寺實則・宮内大臣伯爵渡邊千秋・海軍大将伯爵山本権兵衛御仮床に進謁す、皇后宮大夫伯爵香川敬三侍坐す、皆玉体の毀痩甚しきを拝して嗚咽す、…》
 ここには必死になって坂の上に登りつめた群像たちの時代の共同的心性を象徴する状況がある。それに対して、昭和は、その高山の頂から必然に降らざるを得ない時代だった。そこではすべてが崩落であり、敗滅であり、失陥であり、亡国への過程だった。明治天皇が英邁であり昭和天皇が凡庸であったからだということではない。要するに時代の様相が対極にあり、戦争の性格と意義づけとが反対であった。明治天皇の戦争責任など問題にもならないのに、おそらくそれ以上に戦争に対して消極的・否定的・忌避的であったはずの昭和天皇には戦争責任問題が深く付きまとっている。
 しかもその最期において、昭和は劇的ではなかった。未曽有の敗戦にもかわわらず、昭和天皇は亡命も自決も退位もせず、処刑も告発も追放もされず、歴代最長の在位年数を閲し、生を完結した。関ヶ原や大坂の陣での石田三成や真田幸村のような悲劇性を帯びることもなかった。いやむしろその後、徳川家康のような泰平の礎をさえ敷いた。こういう存在に歴史学はどういう評価をも与え得ないのだった。
posted by tabatabunsi at 19:02| Comment(1) | 『昭和天皇実録』メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私は、自分ほど定見のない人間はいないと最近つくづく思いはじめている。それは何事かに向かい一定の見解を出そうとする場合の手続きのふみかたの無知と言い換えてもよい。
そういう観点から「学ぶ姿勢」で毎回拝読させていただいている。

それとは別に、「坂の上の雲」を今、熟読玩味しているのだが、日本が現在直面している諸問題の因果関係を解析するヒントが余すことなくこの作品に凝縮されているような気がする。ただ一点、「天皇観」を除き。
Posted by ひがむらネオシーダー at 2016年04月25日 21:26
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: