2017年05月25日

街道論 ➅『街道をゆく』時期区分の内容

 先に述べた「時期区分」につき、最小限の説明を加えておきたい。

 まず、前期、後期、補遺期と、大きく三つの時期に分けることについて。かつて私は司馬遼太郎記念館会誌『遼』(二〇一〇年秋季号)に「「二つの近江」から「北のまほろば」へ」と題する小文を発表したことがある。その一部分を次に再掲したい。

《(前略)ここで注目すべきことは、第一巻「湖西のみち」から始まる国内編の三十巻(海外編の十三巻を別として)には、十四年後の再訪の意味が濃い第二四巻「近江散歩」を分水嶺として、――すなわち象徴的にいえば、最初と中間の「二つの近江」によって――前期・後期という重要な画期が分けられていることである。主題とモチーフはほぼ軌を一にしながらも、その強調点には前・後期の間で、ある決定的に大きな転調が行われている。
 シリーズ劈頭の「湖西のみち」は、じつに印象的な文章で始められている。
「『近江』
 というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。
 この「あわあわと」という形容句にはたんに「淡々と」という情景的意味に限定されないエロス(生命)的なふくらみとひろがりがある。じっさい私が最初にこの節を読んだとき、すぐに連想したのは、風土性とエロス性を融合した河野裕子の短歌「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」であった。この司馬の文章には透明で上昇的な至福感がある。
 他方で、後期の開始を告げる「近江散歩」の終章(「浜の真砂」)は、
「真砂の尽きる世にならぬよう祈らざるをえない。」
という暗鬱でペシミスティックな嘆きの文章で締めくくられている。この「二つの近江」の陰影の差は歴然としている。「道」という直線的・街道的・巡行的な標題を持つ前者においては歴史と原形への分析的解明が中心にすえられたのに対し、「散歩」という平面的・地域的・逍遥的な標題の後者においては、山河国土のあるべき原風景への美的模索と憧憬、あるいは列聖・顕彰意識が濃厚である。前期は往相、後期は還相と言いかえてもいい。この転換の背後には、トルストイの回心や修善寺大患以後の漱石の「則天去私」等の、しばしば芸術家の晩年を襲う心的現象になぞらえうるような司馬の転回があったのだろうか。
 このシリーズは形式的には未完であるが、しかし実質的には完結編が存在している。それは第四一巻『北のまほろば』である(以後の『三浦半島記』『濃尾参州記』は、いずれも「記」という標記のあらわすように「補遺・拾遺」編である)。「まほろば」とは端的に「神聖場所」の謂いである。その終末近く、最果ての竜飛崎に立って、
「道は、ここに尽きる。日本じゅうの道という道の束が、やがて一すじの細い道になって、ここで尽きるのである。」
と書き記したとき、司馬は明らかにこの四半世紀の長きにわたった原形探求・神聖憧憬の紀行の終焉を告知していたように思われてならない。全四三巻の中でゆいいつ、「道」でも「紀行」でも「散歩」でもなく、いわば「まほろば!」という憧憬と呼びかけの感嘆句をそのまま題名にした本巻は、――ヤマトタケルにとってと同じく――渾身の小説家であった司馬遼太郎にとっての「白鳥の歌」だったのではないだろうか。》

 前期・後期の分水嶺は十四年後の再訪である「近江散歩」である。まずこの「再訪」が行われたということ自体が驚きである。司馬の流儀から言っても、このシリーズの流れから見ても、同じ地域への訪問は珍しい上に、その順序がいかにも異例である。
 というのはこのシリーズは当時「ディスカバー・ジャパン」(国鉄によるこのイメージ・キャンペーンが始められたのは連載開始の前年の昭和四十五年十月で、「美しい日本と私」というのがそのキャッチ・コピーだった)の観光ブームとは本来無関係のものであった。その「日本探検記」(牧祥三)が結果としては深い次元での「日本(再)発見」の紀行になり得ているということは否定しがたいけれども、その意図は通常の観光名所的な探訪とはおよそ異なるものであった。
 果たして第一編の「湖西のみち」に次の文章があった。
《ちなみに湖東は平野で、日本のほうぼうからの人車が走っている。新幹線も名神高速道路も走っていて、通過地帯とはいえ、その輻輳ぶりは日本列島の朱雀大路のような体を呈しているが、しかし湖西はこれがおなじ近江かとおもうほどに人煙が稀れである。》
「湖西のみち」はいわばその「人煙が稀れ」な「寂しい道」であることをこそ狙いとされていた。逆にそれと対比されて「朱雀大路のよう」と評されていた湖東へ、他ならぬ司馬がこんなにも長い年月を経た後で「再訪」する意味は何だろうか。
 すでに引いた文にもあったように、司馬は「モダン墓地」と化した京や奈良の有名観光地は意識的に避けていた。国内だけでなく、国外の例えば韓国を訪れても首都ソウルは記事にもしていないのである。その司馬が今、近江の「輻輳」の地である湖東を「再訪」していることの意味は深刻である。つまり、この「二つの近江」の持つ意味はまったく異なっている。

 第一に、「みち」と「散歩」という、その表題における「道」表記の問題がある。「紀行」という客観的な意味の表題は別として、前期の諸編はおおむね「みち」「街道」「路」といいう直線的なニュアンスのものであった。ところが後期では逍遥的な意味の「散歩」が多用されている。「界隈」というのもほぼ同義とみていいだろう。もっとも厳密に言えば、「散歩」という表記は「近江散歩」の前にも既に「神戸散歩」「横浜散歩」という二つの短編で使用されているが、これらはいずれもこの年の司馬の海外長期取材(一九八二年九月二十七日から十月十五日まで)のための不在を補う埋め草的な意味のものであると推定される(その論証は煩瑣なので省略する)。つまり逍遥的、すなわち再訪をも許容し得る意味の「散歩」の使用の必然性があったのである。
 第二に、それは前期の「分析」と後期の「懐旧」という、基調の根本的な相違を意味している。
 第三に、それは前期の「祖形探索」と後期の「原郷憧憬」という、問題意識の相違と関係している。問題意識の異なりが基調の相違を生み出しているのである。

 それらの相違を生み出す契機になっているのは何か。
 それは明らかに後期において顕著になってきた司馬遼太郎における呪詛的と言ってもいいほどの現代社会批判の鋭利さ、深刻さ、そして陰鬱さである。時にそれは自虐的でさえある。
 私の気づいた具体例を「近江散歩」の中から二つ挙げよう。

 一つは、安土城址の山頂から見た琵琶湖の景色を叙する箇所である。かつて中学生の頃、苦しみながら登った最高所の天守台趾からの「淡海の小波だつ青さ」、司馬はそれを見るのを楽しみにして登った。
《「山頂では、夕陽が見られるでしょう」
 私は、つらい息の下で言った。
 が、のぼりつめて天守台趾に立つと、見わたすかぎり赤っぽい陸地になっていて、湖などどこにもなかった。
 やられた、とおもった。》(㉔157)
 この「人の生命を養う内陸淡水湖を干拓し水面積を減らしてしまう」という「信じがたいふるまい」に直面して茫然となる司馬の姿はよく分かる。しかし私にはこの驚き自体が虚構なのではないかという気がするのである。
 素朴に考えて、事前の取材を綿密に徹底する司馬のやり方からして、本当に彼は登ってみて初めて、その惨憺たる姿を知ったのだろうか。むしろ知っていたからこそ、その惨状を世に訴え、警世の声を上げるために「再訪」したのではないのだろうか。
 これは卑しい猜疑で言っているのではない。彼の警世の言を軽視しているのでもない。またルポルタージュの定跡からして、こういう虚構の効果を否定しているのでもない。ただ私は、こういう時の司馬の嘆きが悲痛であればあるほど、ある意味では紋切り型に陥っていはしないかということを懼れるのである。
 著者急逝により未完に終わったシリーズ最終巻『濃尾参州記』に「高月院」という章がある。そこはその三十年前、『歴史を紀行する』の「忘れられた徳川家のふるさと」の時に訪れた司馬の懐旧係恋の地である。
《こんども、その松平郷をめざした。
「高月院は、いいですよ」
 私は、編集部の村井重俊氏に、あらかじめ、わがことのように自慢しておいた。
 白壁の塀だけが、唯一の贅沢だった。規模は小さく、建物もやさしくて、尼僧の庵のようでもあり、いずれにしても私の脳裏にある日本の諸風景のなかでの重要な一風景だった。(中略)
 高月院までのぼってみて、仰天した。清らかどころではなかった。
 高月院へ近づく道路の両脇には、映画のセットのような練り塀が建てられているのである。
 それだけではなく、神社のそばには時代劇のセットめかしい建物がたてられていて、ゆくゆくは観光客に飲食を供するかのようであり、そのそばには道路にそって「天下祭」と書かれた黄色い旗が、大売出しのように何本も山風にひるがえっていた。
 高月院にのぼると、テープに吹きこまれた和讃が、パチンコ屋の軍艦マーチのように拡声器でがなりたてていた。この騒音には、鳥もおそれるにちがいなかった。
 この変貌は、おそらく寺の責任ではなく、ちかごろ妖怪のように日本の津々浦々を俗化させている町おこし≠ニいう自治体の正義≠フ仕業に相違なかった。
 私の脳裏にある清らかな日本がまた一つ消えた。
 山を怱々に降りつつ、こんな日本にこれからも長く住んでいかねばならない若い人達に同情した。》(㊸52)
 司馬の絶望感の深さはよく分かる。いやここで「よく分かる」などと言うべきではないのだろう。何故なら、彼にとってはこの嘆きがいかにも紋切り型に受け取られようと、それは社会現実の告発を目指しているのであって、最早、文章表現の問題をはるかに超えているからである。それは本来の司馬の人柄にはふさわしくないと思えるほどの自虐と呪詛の調子に満ち溢れているものである。
 どうしてこうなってしまったのだろうか。
 私には今ここで解明できない。それはもっと先の段階で、なされなければならないとは思うが。…

 もう一つの例を挙げておく。
「湖西のみち」の湖西の道を車で辿っている時の記事に、こういう文章がある。
《「陽が、落ちますよ」
 と、H氏は比良連峰のほうをながめた。ところが須田剋太画伯は、その落陽とは逆方角の、つまり湖の北東の天に光っている白銀の山を見つめていた。伊吹山であろう。その白銀がみるみるうちに薄れて、紗の幕が降りたような、奇妙な光景に変った。
「伊吹は、きっと吹雪いているのですね」
 と、私に教えてくれた。》(@27)
 この光景は「近江散歩」での伊吹山の描写を連想させる。
《伊吹山が、近づいてきた。
 牛の背のように大きく、しかもミルク入りのチョコレート色の岩肌を盛りあげたこの名山は、地球の重量をおもわせるようにおもおもしい。その姿を見るたびに、私の中に住む古代人は、つい神だと思ってしまう。
 南近江の象徴的な神聖山が三上山であり、湖西の名山が比良であるとすれば、伊吹は北近江のひとびとの心を何千年も鎮めつづけてきた象徴といっていい。
「――さん」
 私は、タクシーの運転手さんに、よびかけた。あの伊吹山の肩を見てください。――
「ええ」
 見ました、と言う。
「向って左の肩が、饅頭でもかぶりとったように欠けていますな」
「あれは」
 運転手さんはいった。
「セメント工場がかぶりとったんです」
「ですけど、歯形が入っているわりには、緑っぽいじゃないですか」
「塗料を吹きつけたんです」
 運転手さんは笑わずにいった。
 私どもは、まあ、そのようにして、破綻した文明を弥縫している。その後、草木が植えられたらしいが、ともかく、こんにちのわが文明の段階はその程度だということである。五十年後もこういうぐあいだとは思いたくない。》(㉔113)
 ここで私は、「湖西のみち」の当時すでに伊吹山は「近江散歩」での時と同じような惨状にあったのではないかというような半畳を入れたいのではない。かつてそれほど気にせずに来た問題が何かを契機(きっかけ)にして急にまた俄かに重大視されるということはよくあることである。それはいいが、むしろこれを書いている時の司馬の心情が私には不可解なのである。
 その結尾の「真砂の尽きる世にならぬよう祈らざるをえない」という文章は、これは単なる措辞でも修辞でもない。その範囲を越えていると言うべきである。
 これを言う人は、要するに表現者の次元をすでに超えていると言わざるを得ないだろう。ここで司馬は政治家・革命家・運動家の領域に踏み入った(踏み外した?)のだろうか。いや、私は司馬はここで真正の国士になったのだという気がする。
 しかし国士は最小限、運動家であらねばならない。司馬にはそれは出来なかった。彼は終始、徹頭徹尾、表現者であった。作家であり思想家であり文明批評家であった。その彼にできることは、過去の歴史の中に日本の山河国土のあるべき原風景への美的模索をつづけることであり、そしてそれらの原郷と、美しい日本の伝統に連なり、またそれを維持保存してきた人物群への讃歌をかなでること、それらの場所と人物とを「列聖」し顕彰しようとすることが根本動機とならざるを得なかったのである。分析的な前期がいわば往相の過程を辿って来たのに対して、列聖的な後期はいわば還相の過程であったと言えよう。
 その意識が最終期において『オホーツク街道』『台湾紀行』等の秀作を生み、そして司馬の最後の「白鳥の歌」である傑作『北のまほろば』を産んだのである。
posted by tabatabunsi at 22:03| Comment(0) | 『街道をゆく』断章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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