2017年05月27日

街道論 G『街道をゆく』のベスト作品

『街道をゆく』シリーズには、長編・中編・短編を併せて全体で七十四編ある(『司馬遼太郎の風景@』巻末の一覧では七十二編としているが、私は二冊ずつある『南蛮のみち』『愛蘭土紀行』は共に各二編と数えるのが適当と思うので、七十四編とする)。
 その中で、ベスト・テンといったら、どうなるか。ともかく駄作・凡作は少ない(ほとんどない、と言っていい)ので、そこから選ぶのはかなり難しい。それを敢えて私見で行ってみる。順不同(発表順)にベスト・テンを列挙すれば、次の通りになろうか。
 なお、本の巻名を表わすときは『』で括り、作品の編名を表わすときはすべて「」で括ることにするのが正しいが、ここでは作品の形態(長・中・短編)の区別を表わすために、一冊で一作品の長篇は『』で括って並べることにする。(ここで便宜的に、一冊の中に三編以上収録されている作品群を短編とし、二作品で一冊となっているものを中編として区別した。)

(1)「湖西のみち」(短編)
(6)『韓のくに紀行』
(17)『モンゴル紀行』
(45)『南蛮のみちT』
(47)「近江散歩」(中編)
(57)『愛蘭土紀行T』
(64)『オランダ紀行』
(69)『オホーツク街道』
(71)『台湾紀行』
(72)『北のまほろば』

 見られるとおり、国内編が四編、海外編が六編である。全体では国内編が六十編、海外編が十四編だから、海外編の秀作比率はかなり高いということになる。それはある意味、当然のことであり、それだけ司馬の意気込みが高かったということを証明しているのだろう。
 今度は、国内編だけでベスト・20を選定すると、次のようになる。

(1)「湖西のみち」(短編)
(7)「陸奥のみち」(短編)
(18)『沖縄・先島への道』
(20)「砂鉄のみち」(短編)
(21)「熊野・古座街道」(短編)
(24)「種子島みち」(短編)
(25)「潟のみち」(短編)
(31)『肥前の諸街道』
(33)『壱岐・対馬の道』
(37)『叡山の諸道』
(38)『島原・天草の諸道』
(39)『越前の諸道』
(47)「近江散歩」(中編)
(51)「仙台・石巻」(中編)
(52)「因幡・伯耆のみち」(中編)
(55)「秋田県散歩」(中編)
(60)「奥州白河・会津のみち」(中編)
(62)「大徳寺散歩」(中編)
(69)『オホーツク街道』
(72)『北のまほろば』

 以上を総合すると、次のようなベスト30作品リストになろうか。

(1)「湖西のみち」
(6)『韓のくに紀行』
(7)「陸奥のみち」
(17)『モンゴル紀行』
(18)『沖縄・先島への道』
(20)「砂鉄のみち」
(21)「熊野・古座街道」
(24)「種子島みち」
(25)「潟のみち」
(31)『肥前の諸街道』
(33)『壱岐・対馬の道』
(37)『叡山の諸道』
(38)『島原・天草の諸道』
(39)『越前の諸道』
(40)『中国・江南のみち』
(45)『南蛮のみちT』
(47)「近江散歩」
(51)「仙台・石巻」
(52)「因幡・伯耆のみち」
(54)『耽羅紀行』
(55)「秋田県散歩」
(57)『愛蘭土紀行T』
(58)『愛蘭土紀行U』
(61)「奥州白河・会津のみち」
(63)「大徳寺散歩」
(65)『オランダ紀行』
(69)『オホーツク街道』
(71)『台湾紀行』
(72)『北のまほろば』

 この中で、(31)『肥前の諸街道』は秀作とは言えないが、画期の作品であるので選んだ。また、シリーズ最高の傑作はと言えば、これは別格で『北のまほろば』ということになる。これには異論はあるまいと思う。

 ここから言えることは…
・総じて、海外編には秀作が多い。(前述)
・長中編に傑作が多い。これはやはり、司馬の長編作家的な本領が発揮されているのだろう。もちろん短編にも佳作・秀作はあるが、このシリーズの意味からいって、やはり客観的には長篇になればなるほど、司馬の作家的力量が発揮されるという傾向があるのは否定し得ないことである。
・歴史紀行プロパーの作品には傑作には乏しい。それはやはり司馬の発展過程史からみて、もう出し尽くした後だからである。それに対して、司馬がこれまでの小説作品の上ではあまり取り組んでこなかった古代史、及び近代史の歴史紀行は新鮮味がある。
・祖形論の視点での作品には傑作・秀作が多い。敷衍して、宗教論、朝鮮論等の分野の作にも秀作が多いという印象がある。
・地域的には、辺境・異境の紀行により魅力の豊かな作品が多いという気がする。
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2017年05月26日

街道論 F『街道をゆく』時期区分の意味

 先のように時期区分をする理由は何よりも前期・後期を分けることによって、その隔絶した相違点を明瞭ならしめることにある。
 前期は、分析・革新・未来・祖形…の直線的な追及・追求にその特徴がある。
 後期は、総合・保守・懐旧・伝統…の曲線的で逍遥的な低回にその特徴がある。

 幾つかの前・後期の違いの特徴がある。

 第一に、前期においてはほとんど観光的な名所というところはなかった。意識的に避けられていた。しかし後期では、ある意味、観光名所とも思しいような名所・旧蹟・行事の記述が多くなる。例えば、「近江散歩」でもそうであったが、次の「奈良散歩」の修二会見学記事の詳細で綿密な記述を読んで、私は驚きを禁じ得なかった。かつての司馬だったら、こんな懐旧的な記述をこれほど能くし得ることはなかっただろうが、後期の司馬は徹底的に故郷懐旧的であり伝統回帰的であり聖所保存的であり列聖顕彰的であった。
 司馬はいつも徹底的に、小気味よいまでに、合理と共和というか、反逆的な人間列伝を評価してきたはずだった。戦国の斎藤道三、織田信長、明智光秀(『国盗り物語』)、石田三成(『関ヶ原』)等、また幕末の土方歳三(『燃えよ剣』)、坂本龍馬(『竜馬がゆく』)、河井継之助(『峠』)江藤新平(『歳月』)、西郷隆盛(『翔ぶが如く』)等、…。
 ところがここでは、司馬はあくまで伝統保守の立場に立ち、かりにも旧習墨守の謗りをも否もうとはしないかのようである。実際に、これ以後も、嵯峨、飛騨、阿波、白河、会津、赤坂、大徳寺、中津、宇佐、本所、深川、神田、本郷、等の伝統的な色彩を濃く保持する場所・界隈を「散歩」することになる。そこにはかつての求心的で問題解析的な姿勢はなくなっており、遠心的で遠景崇拝的な心情のみが強く表れている。

 第二、叙述の姿について見ると、何よりも言えることは、『街道をゆく』後期の作品群における、いかにもしっとりとした筆致である。後期の作品には凡作がなく佳作が多い。ある意味、司馬の本領がこれほど発揮された作品群というのは他に乏しいかも知れない。それは司馬の初期の伝奇的な小説の時代を想わせる。
 かつて丸谷才一は、司馬における「前近代的」な要素(例えば『梟の城』での)に触れて、こう言っていたことがある。
《前近代の魅力をこれだけ書ける司馬さんは、前近代に対する憧れを濃密に持っていたはずだと思うんですが、それを捨ててしまったんじゃないか。ここのところともう少しつき合っていたら、欲をいえばキリがないですが、もう一回りもニ回りも大きな存在になっていたとおもいますね。》(井上ひさしとの対談「司馬作品の魅力を語る」、『文藝春秋』平成八年四月号)》
 つまり、言いたいことは、前期は鋭く、後期はまろやか、であるとして、私は前期の求心的で真摯で解明的な姿勢に共感するのだが、一方で、後期の低回的で、ゆったりと濃密な叙述にも魅力を覚えざるを得ないということなのである。

 第三に、ちょっと異様な言葉かも知れないが、私はこれに「列聖」という言葉を選びたい。
 勿論、この「列聖」という語は、本来はカトリックの用語であって濫りに用いるべきものではないが、ここではいわば司馬自身が法王になったかの如く、或いは日本的な意味での天皇になったが如くに、国を誉め、人を誉め、風土(国)を誉めようとするかのようなのである。
 後期における司馬の諸街道への旅は、いわば彼が俯瞰的で天皇的な視点での立場を維持しようとしているかの如くである。例えば、私は、「檮原街道(脱藩のみち)」の中での次の情景に惑耳驚心したのだった。
 それは彼がそこでの千枚田=棚田を見て、感動・感銘して、こう言う場面だった。
《すべては黄昏の光と翳がつくっている色調なのだが、光悦の金蒔絵を見るように豪華だった。
「この田、見ました」
 私は、たれにお礼を言うという相手のないまま、町長さんに頭をさげた。千年来、檮原の山々にきざみつけてきた先人の営みは、この田が証している。》
 ここで司馬は、見る人、見神者であり、或は自己認識としては天皇の国見のような全能者である自分を想定したかもしれない。おおらかな自己肯定であり、自己見神というべきかもしれないが、これは司馬としては曖昧境、法華・念仏三昧境でもある境涯だった。
 そこに現れた意識は、司馬が、最極天では高貴な天皇でもあり、最低地では哀れな持滓でもあるような表裏・二面の現身であった。時に全能・最高の神になるかのように、時に無能・最低の神であるかのように、自在な表現を得ている存在であった。
 ここで司馬は、いわば自身を神として考えたのだった。
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2017年05月25日

街道論 ➅『街道をゆく』時期区分の内容

 先に述べた「時期区分」につき、最小限の説明を加えておきたい。

 まず、前期、後期、補遺期と、大きく三つの時期に分けることについて。かつて私は司馬遼太郎記念館会誌『遼』(二〇一〇年秋季号)に「「二つの近江」から「北のまほろば」へ」と題する小文を発表したことがある。その一部分を次に再掲したい。

《(前略)ここで注目すべきことは、第一巻「湖西のみち」から始まる国内編の三十巻(海外編の十三巻を別として)には、十四年後の再訪の意味が濃い第二四巻「近江散歩」を分水嶺として、――すなわち象徴的にいえば、最初と中間の「二つの近江」によって――前期・後期という重要な画期が分けられていることである。主題とモチーフはほぼ軌を一にしながらも、その強調点には前・後期の間で、ある決定的に大きな転調が行われている。
 シリーズ劈頭の「湖西のみち」は、じつに印象的な文章で始められている。
「『近江』
 というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。
 この「あわあわと」という形容句にはたんに「淡々と」という情景的意味に限定されないエロス(生命)的なふくらみとひろがりがある。じっさい私が最初にこの節を読んだとき、すぐに連想したのは、風土性とエロス性を融合した河野裕子の短歌「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」であった。この司馬の文章には透明で上昇的な至福感がある。
 他方で、後期の開始を告げる「近江散歩」の終章(「浜の真砂」)は、
「真砂の尽きる世にならぬよう祈らざるをえない。」
という暗鬱でペシミスティックな嘆きの文章で締めくくられている。この「二つの近江」の陰影の差は歴然としている。「道」という直線的・街道的・巡行的な標題を持つ前者においては歴史と原形への分析的解明が中心にすえられたのに対し、「散歩」という平面的・地域的・逍遥的な標題の後者においては、山河国土のあるべき原風景への美的模索と憧憬、あるいは列聖・顕彰意識が濃厚である。前期は往相、後期は還相と言いかえてもいい。この転換の背後には、トルストイの回心や修善寺大患以後の漱石の「則天去私」等の、しばしば芸術家の晩年を襲う心的現象になぞらえうるような司馬の転回があったのだろうか。
 このシリーズは形式的には未完であるが、しかし実質的には完結編が存在している。それは第四一巻『北のまほろば』である(以後の『三浦半島記』『濃尾参州記』は、いずれも「記」という標記のあらわすように「補遺・拾遺」編である)。「まほろば」とは端的に「神聖場所」の謂いである。その終末近く、最果ての竜飛崎に立って、
「道は、ここに尽きる。日本じゅうの道という道の束が、やがて一すじの細い道になって、ここで尽きるのである。」
と書き記したとき、司馬は明らかにこの四半世紀の長きにわたった原形探求・神聖憧憬の紀行の終焉を告知していたように思われてならない。全四三巻の中でゆいいつ、「道」でも「紀行」でも「散歩」でもなく、いわば「まほろば!」という憧憬と呼びかけの感嘆句をそのまま題名にした本巻は、――ヤマトタケルにとってと同じく――渾身の小説家であった司馬遼太郎にとっての「白鳥の歌」だったのではないだろうか。》

 前期・後期の分水嶺は十四年後の再訪である「近江散歩」である。まずこの「再訪」が行われたということ自体が驚きである。司馬の流儀から言っても、このシリーズの流れから見ても、同じ地域への訪問は珍しい上に、その順序がいかにも異例である。
 というのはこのシリーズは当時「ディスカバー・ジャパン」(国鉄によるこのイメージ・キャンペーンが始められたのは連載開始の前年の昭和四十五年十月で、「美しい日本と私」というのがそのキャッチ・コピーだった)の観光ブームとは本来無関係のものであった。その「日本探検記」(牧祥三)が結果としては深い次元での「日本(再)発見」の紀行になり得ているということは否定しがたいけれども、その意図は通常の観光名所的な探訪とはおよそ異なるものであった。
 果たして第一編の「湖西のみち」に次の文章があった。
《ちなみに湖東は平野で、日本のほうぼうからの人車が走っている。新幹線も名神高速道路も走っていて、通過地帯とはいえ、その輻輳ぶりは日本列島の朱雀大路のような体を呈しているが、しかし湖西はこれがおなじ近江かとおもうほどに人煙が稀れである。》
「湖西のみち」はいわばその「人煙が稀れ」な「寂しい道」であることをこそ狙いとされていた。逆にそれと対比されて「朱雀大路のよう」と評されていた湖東へ、他ならぬ司馬がこんなにも長い年月を経た後で「再訪」する意味は何だろうか。
 すでに引いた文にもあったように、司馬は「モダン墓地」と化した京や奈良の有名観光地は意識的に避けていた。国内だけでなく、国外の例えば韓国を訪れても首都ソウルは記事にもしていないのである。その司馬が今、近江の「輻輳」の地である湖東を「再訪」していることの意味は深刻である。つまり、この「二つの近江」の持つ意味はまったく異なっている。

 第一に、「みち」と「散歩」という、その表題における「道」表記の問題がある。「紀行」という客観的な意味の表題は別として、前期の諸編はおおむね「みち」「街道」「路」といいう直線的なニュアンスのものであった。ところが後期では逍遥的な意味の「散歩」が多用されている。「界隈」というのもほぼ同義とみていいだろう。もっとも厳密に言えば、「散歩」という表記は「近江散歩」の前にも既に「神戸散歩」「横浜散歩」という二つの短編で使用されているが、これらはいずれもこの年の司馬の海外長期取材(一九八二年九月二十七日から十月十五日まで)のための不在を補う埋め草的な意味のものであると推定される(その論証は煩瑣なので省略する)。つまり逍遥的、すなわち再訪をも許容し得る意味の「散歩」の使用の必然性があったのである。
 第二に、それは前期の「分析」と後期の「懐旧」という、基調の根本的な相違を意味している。
 第三に、それは前期の「祖形探索」と後期の「原郷憧憬」という、問題意識の相違と関係している。問題意識の異なりが基調の相違を生み出しているのである。

 それらの相違を生み出す契機になっているのは何か。
 それは明らかに後期において顕著になってきた司馬遼太郎における呪詛的と言ってもいいほどの現代社会批判の鋭利さ、深刻さ、そして陰鬱さである。時にそれは自虐的でさえある。
 私の気づいた具体例を「近江散歩」の中から二つ挙げよう。

 一つは、安土城址の山頂から見た琵琶湖の景色を叙する箇所である。かつて中学生の頃、苦しみながら登った最高所の天守台趾からの「淡海の小波だつ青さ」、司馬はそれを見るのを楽しみにして登った。
《「山頂では、夕陽が見られるでしょう」
 私は、つらい息の下で言った。
 が、のぼりつめて天守台趾に立つと、見わたすかぎり赤っぽい陸地になっていて、湖などどこにもなかった。
 やられた、とおもった。》(㉔157)
 この「人の生命を養う内陸淡水湖を干拓し水面積を減らしてしまう」という「信じがたいふるまい」に直面して茫然となる司馬の姿はよく分かる。しかし私にはこの驚き自体が虚構なのではないかという気がするのである。
 素朴に考えて、事前の取材を綿密に徹底する司馬のやり方からして、本当に彼は登ってみて初めて、その惨憺たる姿を知ったのだろうか。むしろ知っていたからこそ、その惨状を世に訴え、警世の声を上げるために「再訪」したのではないのだろうか。
 これは卑しい猜疑で言っているのではない。彼の警世の言を軽視しているのでもない。またルポルタージュの定跡からして、こういう虚構の効果を否定しているのでもない。ただ私は、こういう時の司馬の嘆きが悲痛であればあるほど、ある意味では紋切り型に陥っていはしないかということを懼れるのである。
 著者急逝により未完に終わったシリーズ最終巻『濃尾参州記』に「高月院」という章がある。そこはその三十年前、『歴史を紀行する』の「忘れられた徳川家のふるさと」の時に訪れた司馬の懐旧係恋の地である。
《こんども、その松平郷をめざした。
「高月院は、いいですよ」
 私は、編集部の村井重俊氏に、あらかじめ、わがことのように自慢しておいた。
 白壁の塀だけが、唯一の贅沢だった。規模は小さく、建物もやさしくて、尼僧の庵のようでもあり、いずれにしても私の脳裏にある日本の諸風景のなかでの重要な一風景だった。(中略)
 高月院までのぼってみて、仰天した。清らかどころではなかった。
 高月院へ近づく道路の両脇には、映画のセットのような練り塀が建てられているのである。
 それだけではなく、神社のそばには時代劇のセットめかしい建物がたてられていて、ゆくゆくは観光客に飲食を供するかのようであり、そのそばには道路にそって「天下祭」と書かれた黄色い旗が、大売出しのように何本も山風にひるがえっていた。
 高月院にのぼると、テープに吹きこまれた和讃が、パチンコ屋の軍艦マーチのように拡声器でがなりたてていた。この騒音には、鳥もおそれるにちがいなかった。
 この変貌は、おそらく寺の責任ではなく、ちかごろ妖怪のように日本の津々浦々を俗化させている町おこし≠ニいう自治体の正義≠フ仕業に相違なかった。
 私の脳裏にある清らかな日本がまた一つ消えた。
 山を怱々に降りつつ、こんな日本にこれからも長く住んでいかねばならない若い人達に同情した。》(㊸52)
 司馬の絶望感の深さはよく分かる。いやここで「よく分かる」などと言うべきではないのだろう。何故なら、彼にとってはこの嘆きがいかにも紋切り型に受け取られようと、それは社会現実の告発を目指しているのであって、最早、文章表現の問題をはるかに超えているからである。それは本来の司馬の人柄にはふさわしくないと思えるほどの自虐と呪詛の調子に満ち溢れているものである。
 どうしてこうなってしまったのだろうか。
 私には今ここで解明できない。それはもっと先の段階で、なされなければならないとは思うが。…

 もう一つの例を挙げておく。
「湖西のみち」の湖西の道を車で辿っている時の記事に、こういう文章がある。
《「陽が、落ちますよ」
 と、H氏は比良連峰のほうをながめた。ところが須田剋太画伯は、その落陽とは逆方角の、つまり湖の北東の天に光っている白銀の山を見つめていた。伊吹山であろう。その白銀がみるみるうちに薄れて、紗の幕が降りたような、奇妙な光景に変った。
「伊吹は、きっと吹雪いているのですね」
 と、私に教えてくれた。》(@27)
 この光景は「近江散歩」での伊吹山の描写を連想させる。
《伊吹山が、近づいてきた。
 牛の背のように大きく、しかもミルク入りのチョコレート色の岩肌を盛りあげたこの名山は、地球の重量をおもわせるようにおもおもしい。その姿を見るたびに、私の中に住む古代人は、つい神だと思ってしまう。
 南近江の象徴的な神聖山が三上山であり、湖西の名山が比良であるとすれば、伊吹は北近江のひとびとの心を何千年も鎮めつづけてきた象徴といっていい。
「――さん」
 私は、タクシーの運転手さんに、よびかけた。あの伊吹山の肩を見てください。――
「ええ」
 見ました、と言う。
「向って左の肩が、饅頭でもかぶりとったように欠けていますな」
「あれは」
 運転手さんはいった。
「セメント工場がかぶりとったんです」
「ですけど、歯形が入っているわりには、緑っぽいじゃないですか」
「塗料を吹きつけたんです」
 運転手さんは笑わずにいった。
 私どもは、まあ、そのようにして、破綻した文明を弥縫している。その後、草木が植えられたらしいが、ともかく、こんにちのわが文明の段階はその程度だということである。五十年後もこういうぐあいだとは思いたくない。》(㉔113)
 ここで私は、「湖西のみち」の当時すでに伊吹山は「近江散歩」での時と同じような惨状にあったのではないかというような半畳を入れたいのではない。かつてそれほど気にせずに来た問題が何かを契機(きっかけ)にして急にまた俄かに重大視されるということはよくあることである。それはいいが、むしろこれを書いている時の司馬の心情が私には不可解なのである。
 その結尾の「真砂の尽きる世にならぬよう祈らざるをえない」という文章は、これは単なる措辞でも修辞でもない。その範囲を越えていると言うべきである。
 これを言う人は、要するに表現者の次元をすでに超えていると言わざるを得ないだろう。ここで司馬は政治家・革命家・運動家の領域に踏み入った(踏み外した?)のだろうか。いや、私は司馬はここで真正の国士になったのだという気がする。
 しかし国士は最小限、運動家であらねばならない。司馬にはそれは出来なかった。彼は終始、徹頭徹尾、表現者であった。作家であり思想家であり文明批評家であった。その彼にできることは、過去の歴史の中に日本の山河国土のあるべき原風景への美的模索をつづけることであり、そしてそれらの原郷と、美しい日本の伝統に連なり、またそれを維持保存してきた人物群への讃歌をかなでること、それらの場所と人物とを「列聖」し顕彰しようとすることが根本動機とならざるを得なかったのである。分析的な前期がいわば往相の過程を辿って来たのに対して、列聖的な後期はいわば還相の過程であったと言えよう。
 その意識が最終期において『オホーツク街道』『台湾紀行』等の秀作を生み、そして司馬の最後の「白鳥の歌」である傑作『北のまほろば』を産んだのである。
posted by tabatabunsi at 22:03| Comment(0) | 『街道をゆく』断章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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