2017年05月20日

俗情論 ➁庇護と監視

 今日の天声人語の話題は「共謀罪」で、知識人たちの法案への不安、危惧、疑念が語られている(資料)。結尾の文章にこうある。
《日本ペンクラブの反対集会で作家の森絵都さんが語っていた。「日本人の心のなかには、何か起こったときには国が守ってくれるという依存や期待があるのではないか。そこを国につけ込まれるのでは」。そして庇護(ひご)と監視は必ず一緒に差し出されると》
 私にもこの法案への疑念はある。というより、正確に言えば、法案の中味そのものよりもそれを推進している安倍首相なる人物へのいかがわしさの感じである。
 最近の世界では、ロシアのプーチン、アメリカのトランプをはじめ、フィリピンのドゥテルテとか、シリアのアサドとか、何か今が近代ではなく戦国乱世ではないかと思わせるようなヤクザめいた指導者たちが輩出していて、ひょっとしてこれはヴァーチャル・ワールドではないのかという錯視感さえ覚えるのだが、これがグローバル化した世界の行き着いた果てのグロテスクな戯画であるのかも知れない。
 それはさておき、私はこの森絵都さんの言葉にある「日本人の心」に注目したい。こういう心性が「日本人の心」の特徴・特質であるのかも、私には分からないが、いざという時に国が守ってくれるという「依存や期待」は国民としてごく自然のものではないのか(いやむしろ、日本人にはそれさえも薄いのかもしれないが)。そして現実社会の構造において「庇護と監視」が一体のものというのもごく当然のことなのではないか。
 もちろん依存と庇護の期待をしつつ、他方で監視や干渉に反発したり抵抗したりする心情や行動はあり得る。それを昇華すれば哲学的な存在理由さえ持ち得るのかもしれない。それはいいとして、ただ私にとって不可解なのは、こういう論理が批判の言説として現実的に有効であり有意味であると考える感覚なのである。これのどこに生活人すなわち庶民の心性との回路が作り得るのだろうか。

*********************
(資料)
2017年5月20日(天声人語)「共謀罪」衆院委で可決
《心のなかを裁く法律ではないか。不安が消えたとはとても言えない。犯罪を計画の段階から処罰する「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ法改正案をめぐり、あちこちで発せられてきた言葉がある▼共謀罪のある社会は、どこまで監視の目を広げるのか。作家の平野啓一郎さんの危惧は現代的である。「フェイスブックなどのSNSが発達した今、『友達の友達』は時にとんでもないところまでつながっていく。犯罪を漠然としたリスクとして『予防』しようとすると、捜査機関の監視は歯止めがなくなる」▼102歳の太田まささんは18歳のころ、共産党の機関紙を読んだことを理由に警察に拘束された。「時代を逆戻りさせちゃならん。足さえ動けば、反対を訴えるのに」。共謀罪の目的は組織犯罪の未然防止だとされるが、市民の活動がゆがめられ解釈されるおそれはないか▼「政府は言う、普通の人には関係ない しかし判断するのは権力を持つ者、警察だ ダメと言われたらそれでアウト」と歌手の佐野元春さんがフェイスブックに書いた。一般の人は対象ではないという政府答弁への疑念である▼日本ペンクラブの反対集会で作家の森絵都さんが語っていた。「日本人の心のなかには、何か起こったときには国が守ってくれるという依存や期待があるのではないか。そこを国につけ込まれるのでは」。そして庇護(ひご)と監視は必ず一緒に差し出されると▼本当にこのまま通していいのか。衆院本会議にのぞむ議員一人ひとりに問いたい。》
posted by tabatabunsi at 19:34| Comment(0) | 俗情の日本人論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月19日

街道論 @『街道をゆく』のこと(はじめに)

 私は今までに『街道をゆく』の全体(全四十三巻)を二度、読了している。最初に読んだのが朝日文庫判で、何年か後に二回目の読了を試みた時は気分を変えて「日本の古本屋」で一括購入した単行本で読んだ。今度の三回目はワイド版を新たに購入して読み始めている。
 私は以前、司馬遼太郎記念館会誌である『遼』に依頼されて、『街道をゆく』についての試論を発表したことがある(2010年秋季号・第37号、10月20日刊)。その最初に私は次のように書いた。
《私は司馬遼太郎没後の読者で、八年前、ほんの偶然から読んだ初期短編集『ペルシャの幻術師』に衝撃を受けてから、憑かれたようにして司馬の全著作を繰り返し読破することになった。昨年上梓した『司馬遼太郎とエロス』、『司馬遼太郎 歴史物語』という二冊の本は『ペルシャの幻術師』から『韃靼疾風録』にいたる司馬の全小説について研究したものであるが、その主著である『街道をゆく』の解読については今後の課題として取り組んでいる。》
 それから数えると、すでにもう七年近くになるが、結局まだ本格的に着手するに至っていない。怠ってきた理由について説明するのは難しい作業になるが、簡単に言うと、第一には『街道をゆく』の内容があまりに広く、主題も論題も多岐にわたり、焦点を絞りにくいことである。第二に、その語りがあまりにも自由で、これを自在と言えば褒辞であるが、悪くすれば散漫になりがちになることである。これは司馬の本領である小説そのものでは勿論ないが、しかしまた論旨一貫した論文やエッセイでもない。それは紀行であるかどうかさえ疑わしい。こういう著作について俯瞰的で体系的な視点を持つことは実に困難である。
 第三に、私の側の事情を言えば、私は司馬遼太郎の晩年における著作の根幹について、ある疑念・懸念・違和感を持っていて、それが完全には払拭できないからであった。それが何かを今ここで述べるのは難しいので、おいおい解き明かすということにしたい。ともかく、ようやくその私にとっての「謎」を諦らかに見ることができるようになったのである。…

 それでこの「『街道をゆく』断章」を始めることにする。表題の中では、このカテゴリは「街道論」と略称する。

 ここで『街道をゆく』についての書誌的事項を記しておく。
 このシリーズは、昭和四十六(一九七一)年一月一日号からの「(1)湖西のみち」から開始され、最終編が「(74)濃尾参州記」(中絶)で、平成八(一九九六)年一月十九日号だった。司馬の四十七歳の年から始まり、七十三歳になる少し前で終った。休載を挟みながら、全体は二十五年間余にわたり続き、一一四七回(章)に及んだ。単行本(文庫判も)は全四十三巻、一章すなわち連載一回分の分量は四百字詰原稿用紙で約十五枚半である(朝日新聞社編『「司馬遼太郎・街道をゆく」エッセンス&インデックス』による)。
 この紀行を書きながら、司馬はほぼ同時に、『坂の上の雲』のサンケイ新聞連載、『城塞』の「週刊新潮」連載、『花神』の朝日新聞連載等を併行して書いていた(『世に棲む日日』の「週刊朝日」連載は前年の十二月に終了していた)。
posted by tabatabunsi at 15:58| Comment(0) | 『街道をゆく』断章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月18日

俗情論 @「俗情」の根にあるもの

 以前やっていたブログでも、今の天皇論でも、考えてみると、私の関心の中心には日本・日本人論というものがあった。それで本格的に始めたいと思っている『街道をゆく』論のための間奏曲として、今日から「俗情の日本人論」というカテゴリを設けることにした。これは日々のガス抜きでもあり毒消しでもあると共に本筋への参考資料作りであり考察の準備作業につながるものと考えている(標題に掲げるカテゴリは略して「俗情論」とする)。
「俗情との結託」というのは大西巨人の用語でもあるが、私のこの標題はその意味をも含めて「俗情」の視点からの日本人論でもあり、また同時に俗情的な日本人についての思索でもある。それが結びつくと思うのは、私はこの「俗情」というのが日本人の本質ではないかと疑っているからである。その高貴さにおいても低劣さにおいても。というより、時に高貴と低劣とはメダルの表裏でもあり得るのである。
 素材は時事的なニュースを用いたい。私は今のところ、テレビはあまり見ないことにしており、購読紙は朝日新聞だけだから、それが主たる情報源になるだろう。分析よりも資料作成に意義がある。
 早速、今日の話題に移ろう。

 今日の「天声人語」に《文科省文書に「総理の意向」》という趣旨の記事がある。(資料・1)
 落語「将棋の殿様」に出てくる「やっかいな主君」を安倍晋三首相に擬えて、「無理を承知で計画を通した跡」の歴然としている学校法人「加計学園」の獣医学部の新設を認められるまでの経緯をめぐる問題追跡である。結論部にはこうある。
《決められたルールにのっとった政治は「法治」と呼ばれ、近代国家の基本となっている。時代をさかのぼれば、権力者の意向がすべての「人治」があった。今回の件がどこまで法治の名にふさわしいのか、首をかしげたくもなる》
 筆者はこれを「森友学園だけで終わらない政治と行政の闇である」と嘆いている。
 同じく今日の社説は「加計学園問題 疑問に正面から答えよ」と題して論じている。(資料・2)
「政府はすべての国民に公正・公平に向き合い、首相との距離によって対応に差が出るようなことがあってはならない」というのは正論である。「民主主義国家の当たり前の原則が掘り崩されているのではないか」という疑問は真っ当である。「森友学園への国有地売却問題とも重なる」という指摘は妥当だろう。「森友学園問題での財務省のような、事実究明に後ろ向きな態度は許されない」という結論は首肯できる。
 それにもかかわらず、安倍は遂には逃げ切るのだろう。
 何故だろうか。
 まず言えることは、安倍夫妻による森友・加計学園への利益供与的な行為を日本社会の人々は「政治と行政の闇」などとは思っていないのではないか。「首相と理事長の個人的な関係が影響」して「首相との距離によって対応に差が出るようなこと」があるのは正義ではないまでも、またかりにもそれを妥当とはおおっぴらには高言できないとしても、まあそれ位は地方議員や陣笠代議士とは異なる立場にある総理大臣たるものの権力行使の範囲内の問題として仕方のない程度だと考えているのではないのだろうか。中国やソ連やアジアの各国の政治権力の状況と比べたら、より悪の程度の小さい・まだしも可愛いものだと見ているのではないか。
 つまりはわれわれ日本人は「法治」よりも「人治」の方が好きだからではないのか。その方がわれわれには着褻れのした肌着のように親しみがあり、どこか相性がいいのではないだろうか。
 同じ社説には「皇室の将来 議論の先送り許されぬ」という提言も並んでいるが(資料・3)、これについて贅言するのはもうやめにしよう。日本人の歴史の中には、天皇・皇室制度というものが戦争であれ革命であれ何があろうと、いわば天壌無窮のように存続し続けているが、私にはこれは同根の問題のような気がするのである。

**********************
(資料・1)2017年5月18日「天声人語」
《やっかいな主君がいたものである。その殿様は、家来と将棋を指すのだが、決まり事などお構いなし。駒を取られそうになると「それを取ってはならん」とぴしゃりと命令する。家来は戸惑うが、従う以外にない。落語「将棋の殿様」である▼「金銀が目障りだ。取り片付けい」「その駒は、こっちに寄越せ」。そんな調子で殿様は勝ち続ける。負けた方は罰として鉄扇でたたかれる決まりになっており、家来たちの頭はこぶだらけとなる▼こちらも無理な課題を何とかこなし、いろんなところにこぶや傷をつくった役人たちがいたのだろうか。学校法人「加計学園」が獣医学部の新設を認められるまでの経緯についての文書が明らかになった▼学園の理事長は、安倍晋三首相とゴルフや食事をともにする友人である。文部科学省が作った文書には、内閣府からの言葉として「官邸の最高レベルが言っている」「総理のご意向だと聞いている」などの記述がある。無理を承知で計画を通した跡がうかがえる▼決められたルールにのっとった政治は「法治」と呼ばれ、近代国家の基本となっている。時代をさかのぼれば、権力者の意向がすべての「人治」があった。今回の件がどこまで法治の名にふさわしいのか、首をかしげたくもなる▼落語では最後に、古参の家来が殿様と対局する。規則の大切さを訴えつつ、真剣に盤に向かう。そんな政治家や役人は今のこの国にいないのだろうか。森友学園だけで終わらない政治と行政の闇である。》

(資料・2)2017年5月18日(社説)「加計学園問題 疑問に正面から答えよ」
《政府はすべての国民に公正・公平に向き合い、首相との距離によって対応に差が出るようなことがあってはならない。
 民主主義国家の当たり前の原則が掘り崩されているのではないか。そう疑わせる問題が、朝日新聞が入手した文部科学省作成の文書で明らかになった。
 文書には、岡山市の学校法人が国家戦略特区に獣医学部を新設する計画について、特区を担当する内閣府が文科省に対し「官邸の最高レベルが言っている」「総理のご意向だと聞いている」と手続きを進めるよう促した記録がある。
 この学校法人は、安倍首相が「腹心の友」と呼ぶ人物が理事長を務める「加計学園」。
 記載が事実であれば、内閣府が「総理のご意向」をかざして首相の友人に便宜をはかろうと動いたととれる。首相と政府の信頼に関わる重大な事態だ。
 事実関係をすみやかに調べ、国民に説明する責任が首相と関係省庁にはある。
 経緯はいかにも不自然だ。
 文科省関係者によると、文書は昨年9月から10月にかけて作成。松野文科相が、学園の求める18年4月の開学について、教員確保など準備が整わない可能性を指摘し、難しいとする考えを示していた記述もある。
 ところがわずか数カ月後の今年1月、内閣府と文科省は18年4月に開校する1校に限り、特例で獣医学部設置を認めると告示。加計学園が特区事業者に認定された。他の大学からも手があがっていたのに「獣医学部空白地域に限る」との条件があとから追加された。
 獣医学部の新設が認められたのは52年ぶり。加計学園は愛媛県今治市から36億7千万円分の市有地を無償で受けとる。
 一連の経緯や首相のかかわりについては、これまでも野党が国会などでただしてきた。
 野党側は、長く認可されなかった学部新設が同学園に限って認められたことに「首相と理事長の個人的な関係が影響したのではないか」と指摘する。
 これに対し首相は「友人だから会食もゴルフもする。でも、彼から頼まれたことはない」と自らの関与を否定してきた。
 「安倍1強」と言われる強い権力と周辺の人脈、不可解な政府の決定――今回の構図は、首相と妻昭恵氏の関与の有無が問われている森友学園への国有地売却問題とも重なる。
 松野文科相は「現状では文書の存在を確認していない」と述べた。森友学園問題での財務省のような、事実究明に後ろ向きな態度は許されない。》

(資料・3)2017年5月18日(社説)「皇室の将来 議論の先送り許されぬ」
《秋篠宮ご夫妻の長女眞子さま(25)が、婚約にむけて準備を進めていることが明らかになった。お相手の小室圭さんは大学時代の同級生だという。心からお祝いを申し上げる。
 一方でこの慶事は、皇室が直面している課題をあらためて浮き上がらせた。
 皇族の数の減少である。皇室典範の定めにより、眞子さまは結婚すると皇籍を離れ、一民間人となる。いまのままでは、30代以下の皇族は7人、うち女性が6人という構成になる。
 結婚した後も女性が皇室に残れるようにする「女性宮家」構想が打ち出されたのは5年前、野田内閣のときだ。
 皇室活動の将来に危機感を抱くとともに、眞子さまと妹の佳子さまが結婚を考える年ごろになる前に手を打たなければ、という配慮が働いたといわれる。三笠宮家、高円宮家の女性皇族にとっても、制度の作り方によっては、その後の人生に大きな影響が及ぶ。
 しかし、女性皇族の結婚相手や生まれた子の身分・地位をどうするかなど、慎重な検討を要する論点が浮上。三つの具体案を示したペーパーを公表し、引き続き議論を深めることを呼びかけたところで、政権交代が起きた。その後、安倍内閣はこの問題に取り組む姿勢を見せず、今日に至っている。
 天皇陛下の退位のあり方などをめぐる衆参両院正副議長による今年3月の「とりまとめ」には、「女性宮家の創設」が検討課題として明記された。
 政権はこれにも拒否反応を示してきた。退位特例法案の国会審議が間もなく始まるが、付帯決議に女性宮家の考えや検討の時期をどう盛りこむかが、与野党折衝の焦点になっている。
 安倍政権がかたくなな態度をとり続けるのは、女性宮家が女性・女系天皇に道を開くことになりかねないと見るからだ。そうやって手をこまぬいているうちに、事態は抜き差しならないところに進みつつある。
 約700年前に天皇家から分かれ、戦後、皇籍を離れた旧宮家の男性を皇族に復帰させる案を唱える人もいる。だが国民が素直に受け入れ、これまで皇族に寄せてきたのと同じような思いを抱くことができるか、大いに疑問がある。国民の支持なしに皇室制度は存立しない。
 政府はどんな対応策を考え、いかなる手順で人びとの合意形成を図るつもりなのか。
 これまでのような先送り・不作為は、もはや許されない。政府をチェックする役割を負う国会もまた、責任を問われる。》
posted by tabatabunsi at 21:51| Comment(0) | 俗情の日本人論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。