2017年03月01日

『実録』メモ (102)おほみやびうたの大正天皇

『大正天皇御集 おほみやびうた』(改題と解説・岡野弘彦、邑心文庫)という歌集がある。
 漢詩もいいが、和歌もいい。明治・昭和と比べて、私には好もしい歌が多い。そこには明治・昭和の両帝に有りがちな王者ぶり・帝王ぶりの構えがない、気取りがない、ええ恰好しの見栄もないのである。帝王ぶりの例として挙げると、例えば、歌の結句に「思ふ」とか「祈る」とかの語句が昭和天皇にはかなり多いが、大正天皇には極めて少ない。それはつまり、己は天皇であり、その行住坐臥、一つとして尊厳ならざるものはなく、何をどう詠んでもそれなりに歌になる、というのが帝王の帝王たる所以である、という自負心である。これが大正天皇には殆ど見られないのである。
 わずか31文字という狭い範疇の中において、「思う」とか「祈る」とかの三音も費やすような、無駄な・悠長な言葉使いは本来、あり得ないのであるが、昭和天皇には数多く見出される。彼は幼少の折から、儀礼的・儀式的な帝王学を学んできているので、かなりに杓子定規的である。それに対して、大正天皇の歌には、すぐれて人間的な・個性的な、その意味で現代人的な感性さえ感じられる気がする。
 冒頭の歌、「若布かる海人のかげさへ立ちこめて波路はるかに霞む今日哉」の平明で叙景的な歌、こういう普通人の感覚での歌は、明治・昭和の両帝にはあまり見られない。「咲きそめし梅見にくればほほゑみて花も我をぞむかへ顔なる」というのも面白いし、「ちる花の雪ふみわけてかへるさは駒のあがきにうちまかせつつ」の飄逸味も悪くない。特に次の二首はいい。また、――
《はる雨のはるるを待ちて若松のつゆよりなれる玉拾ひつつ》(沼津用邸にて庭前の松露を拾ひて)
《今ここに君もありなばともどもに拾はむものを松の下つゆ》(その松露を節子に贈るとて)
 これは相聞歌として秀逸である。さらに又、――
《御軍にわが子をやりて夜もすがらねざめがちにやもの思ふらむ》
《中山の老木の松は千代かけて立ちさかえむと思ひしものを》
《鶯やそそのかしけむ春寒みこもりし人のけさはきにけり》
などという歌にも、王者ぶりではない、細かな対人感情の行き届きの気配がある。
 高橋睦郎は大正天皇の歌群を評して言う。「天性無垢で高貴。反無垢・反高貴の時代にこんな人物が王者になったら、悲劇を生きるほかはないだろう」と。また水原紫苑は「痛いほど鋭利な感覚」と言い、こう結論する。
《実に繊細なうつろいをさえ、神に向かう魂に刻まないではいられない作者なのである。その傷つきやすい心は詩歌人にとっての恩寵にちがいない。/この不幸な帝王は、あるいは神に愛された人であったかも知れないのだ。》
 さらに岡野弘彦は作歌総数こそ、明治・昭和の両帝に劣るとはいえ、「歌に現れた心の鋭敏さの点では三代の天皇のうちで大正天皇が一番するどい感じがする」と結んでいる。
 しかしこういう資質は、帝国主義的な政治家・王者としての力量を問われる近代天皇としては失格だった。そこに時代と資質との相反性の悲劇があったのである。
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2017年02月28日

『実録』メモ (101)漢詩人大正天皇

『大正天皇漢詩集』(石川忠久編著、大修館書店)を読んでいる。
 昭和天皇の「帝王学の時代」をしめくくるに際して、父の大正天皇の伝記を読んでみた。明治・昭和の両天皇の伝記が数多いのに対して、大正天皇の伝記は今のところ、原武史、古川隆久、F・R・ディキンソンによるものしかなく、また『大正天皇実録』も補訂版の「第一」が公刊されたばかりである。父の明治と子の昭和に比較して、あまりに均衡を失した少なさである。
 私自身は、前から大正天皇には興味というか、好意を持っていた。丸山眞男の文章から知った遠眼鏡事件でも、決して悪感情も、軽蔑感も持たなかった。むしろ、その飄逸たる人間味に惹かれた。上記の伝記群をすべて読んでみて、この人は、軽忽なるところが多分にあるとしても、気さくで偉ぶらず、睥睨などすることは凡そない、ごく話し易い人である、という印象だった。
 その大正天皇が漢詩を多数、作っているということを知って、興味を覚えた。その短い生涯の間に、彼は実に1367首の漢詩を遺した。歴代天皇中の第一位であるらしい。第二位が後光明天皇(110代・江戸初期)の98首、第三位が嵯峨天皇(52代・平安初期)の97首だというから、圧倒的な数である。同じ石川忠久の編著に『大正天皇漢詩集』があり、精選された268首が掲載されている。
 最初の漢詩は次の通り。
《東風梅馥郁(東風に梅馥郁たり)
 天地十分春(天地 十分の春)
 喜見昌平象(喜び見る 昌平の象)
 謳歌鼓腹民(謳歌す 鼓腹の民)》
 全体に平凡かも知れず、また「十分」という語は和臭が強く、詩的ではない。しかしこれは最初期の作であり、未熟の点も仕方ないだろう。だが何となく読んで気分がいい。のびのびとした人柄が偲ばれる。その後、「至尊」という父・明治天皇の詩も、やや畏敬感が過ぎているけれども、これもいい。その次、「過目黒村」の《雨余村落午風微(雨余の村落 午風微かなり)/新緑陰中蝴蝶飛(新緑陰中 蝴蝶飛ぶ)/二様芳香来撲鼻(二様の芳香来りて鼻を撲つ)/焙茶気雑野薔薇(茶を焙る気は雑わる 野薔薇に)》という詩のさりげなさも捨てがたい。構成はかなりぎこちないし、「二様」の語も和製漢語だろう。という風に、次々と読んでみると、どの詩もいい、という気がしてくる。その中で、次の「到塩原訪東宮」(塩原に到り東宮を訪う)という詩に目が留まった。
《巌下流水有清音(巌下の流水 清音有り)
 屋後青山好登臨(屋後の青山 登臨に好し)
 塩原光景佳絶処(塩原の光景 佳絶の処)
 東宮相見情転深(東宮 相見て 情転た深し)
 攜手細径楽間歩(手を携えて 細径に間歩を楽しみ)
 亭午同餐共怡心(亭午 餐を同じくして 共に心を怡ばす)
 帰路入山又出野(帰路 山に入り 又た野に出づ)
 暮色蒼茫満雲林》(暮色蒼茫として 雲林に満つ)》
 これは子である東宮、すなわち後の昭和天皇の事を詠んでいるのだが、これは正確にいつのことだろうか。これは大正二年の詩らしい。実際にその年の『昭和天皇実録』にあたってみると、8月30日の項にこうある。
《土曜日 午前十時三分、日光より塩原御用邸に行幸の天皇を御車寄階下において御奉迎になり、御座所において御拝顔になる。それより御一緒にて内庭を御散策の後、御昼餐を御会食になる。(以下省略)》
 この典拠の一つに『大正天皇御製詩集』が挙げられているのを見ても、その漢詩への高評価が分かるだろう。これらを読み通してみて感ずるのは、大正天皇の資質、――繊細で、人懐こく、要するに人間味の豊かな人という印象である。石川忠久は彼を「文人の気質」と言い、こう結論している。
《つくづく思うに、天皇は晩年脳を患われ世と相離れてご生涯を送られたが、それは偶々日本の国勢拡張期に遭遇し、富国強兵の思潮の渦に否応無しに翻弄されたことに因ってのことではないか。もし天皇が奈良、平安の雅な世にお生れになっていれば、その文人の気質は伸びのびと揮われたのではないか、と。》
 確かにそうである。時代に生まれ合せる幸運と不運と。孝明、明治、大正、昭和、そして今上〈平成)と、五代にわたる天皇家の歴史の如実な表現、現れだと思われる。
 もし、大正天皇があと20年生きていたとすれば(これは決して架空論ではない。その頃でも60歳位の人は少なくはなかった筈である)、未曽有の敗戦・亡国の状況を経験したのは昭和天皇ではなくて、実は大正天皇だった、ということも有り得ることだろう。
 もしそうなったら、近代天皇の中で記憶に残ったのは、創業の明治と下降の大正、とい対比だったろう。戦後復興を担ったことになる昭和天皇の記憶はかえって薄れていたのではないか。
 これは元号の迷蒙、錯覚、妄想によるものである。
 偶々、近代になって、初めて一世一元の制度が決まった。それによって、元号の意味が決定的に異なることになってしまった。つまり、日本人は今でも、西暦年号の簡便さよりも日本的な元号の歴史的な神秘性に魅力を感じているのらしい。普通に考えれば、天皇が変ったことで時代が変わる、などということなど有り得る筈もない。それは錯覚に過ぎないのだが、日本人はそれを好むのである。
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2017年01月07日

『実録』メモ (100)白鳥庫吉『国史』を読む

 東宮御学問所での重要主題は「倫理」と「歴史」だった。
「歴史」の担当は白鳥庫吉で、大正3年9月11日の『昭和天皇実録』では、「『国史』の印刷成り、明日より使用」との記事があった。
 今、その『国史』の復刻版が出ている(勉誠堂出版)。題は『昭和天皇の教科書「国史」』というもの。それは元・御学友であり、後に侍従にもなった永積寅彦氏が保存していたものである(元は5冊に分かれていた)。
 これは、神話時代、神武天皇から先帝(明治)天皇に至るまでの日本歴史である。もちろん特異である。何故なら、こんな形式の日本史は、戦後は払底してしまっていたからである。しかし私は、ちょうど『天皇の歴史』シリーズ(全10巻)を読んでいた時だったので、違和感がなく読めた。確かに日本史はいわば天皇史・皇室史でもあるのであって、そういう制度を私個人は好まないけれども、日本国民の過半数以上の支持があるのであってみれば、これはまた已むを得ないのである。という位には、私は柔軟なのである。
 もっともこの教科書の全部が白鳥の著述であるのかどうかは定かではない。というのは『昭和天皇実録』(2−63)に、次のような記述({津田左右吉等へ、嘱託の辞令})が見られるからである。
《大正3年7月8日 東郷総裁より、白石正邦・津田左右吉に対し、東宮御学問所用歴史編纂の委嘱。嘱託の辞令が交付。》
 もしこれが実際であったとしても、白鳥は本来、東洋史が専門であるから、日本史専門学者の協力を得たとしても不思議はない。それは別として、この著作が力作であることに私は異存がない。少なくとも私は、こんなに簡便にして要領を得た天皇史(通史)を退屈せずに読んだのは初めてであった。その主題の一貫性や論述の説得性はさすがだと思わせた。
 私の所感を(例によって)三点指摘しておこう。
 第一。白鳥は元来、神話は歴史とは別次元のものと断じていた筈なのだが、本文を読むと、必ずしもその断絶性は明らかではなく、むしろ連続性を肯定しているように見える。これは日本の学者の融通性というか妥協性、あるいは曖昧性といったものの象徴でもある。それが「和を以て貴しと為す」精神の根源であるのだろう。それが本書を「帝王学の教科書」とする所以であろう。つまり白鳥もまた典型的な日本人である。つまり融通主義・調和折衷主義であるということである。
 第二。歴代天皇に関しては、能う限り、歴史的に公正な視点に立とうと努めている姿勢が伺える。その主旨は歴代天皇の「聖徳」を顕彰(検証)することにあるのだが、同時にその欠陥・失政をも率直に指摘している。それが白鳥の歴史学者としての譲ることのできない根拠だったのだろう。
 しかし、これは歴史学者の通弊(必然)なのだろうが、いつも予見性という(本来、歴史の根源的意味であった筈の)点において、盲目的であることが明らかになったのである。
 例えば、彼は、「総説」で「帝国の領土及び位置」「帝国の民族」を論じているが、それは常に現状肯定の上での説明であるに過ぎない。領土についていえば、上代においては「大倭秋津島」のみだったが、現代では「東北千島樺太より西南台湾に至る間に点綴せる一大列島と、亜細亜大陸より突出せる朝鮮半島とを包含」しているので、結局はすべて「協同一致して堅実なる国民的精神を養ひ、以て帝国の実力を発達せしめ、国民の生活を豊富ならしめ、また列国の民衆と共に世界の文運を増進せしめざるべからず」と、要するに微温湯的な・中庸公正で凡庸な結論しか提示し得なかったのである。
 第三。多彩な論述の究極の結論として示唆されているのは、明治天皇の理想化(称揚・宣揚)であり、「大帝」化への道程である。実際、全体で710pのうち、明治天皇の箇所は75pを占めている。つまり、11%である。つまり、122分の1であれば、約6pであるに過ぎない筈なのに、その10倍以上を占めているということである。明らかに結果としてこの『国史』は先帝である明治天皇の宣揚を目的としているように見えるのである。
 歴史の理想化の挙句は、その後の歴史展開においてどのような結果を齎したのだろうか。裕仁摂政(皇太子)にとってそれが果たしてプラスだったかマイナスだったかという点については、早急な結論を出すことはできない。それは、第二部「大元帥の時代」の焦点になるだろう。
posted by tabatabunsi at 01:06| Comment(0) | 『昭和天皇実録』メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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